映画『愛がなんだ』感想 または今、映画館で起きている特別な現象について

f:id:Cinema2D:20190517111717j:plain

人類で初めて『片思いブラックホール』の撮影に成功した、世界の秘密に触れる映画である

映画館で何かが起きていると気がついたのは、ゴールデンウィーク明けだったと思う。アベンジャーズエンドゲームと名探偵コナンとキングダムという、ゴジラモスラキングギドラみたいな組み合わせのブロックバスター映画三大怪獣史上最大の決戦は、劇場で彼ら以外のあらゆる映画を虐殺しまくった。各映画館最大級のホールを占有するだけでは足りず、巨大な肉食獣が獲物を食い殺すような獰猛さと残忍さで、小規模中規模のヒット映画から劇場を奪い去って2ホール同時上映を行い(劇場によっては3作が同時にである)多くの佳作映画が打ち切りに追い込まれていった。

 『愛がなんだ』という日本映画の予告編は何度か見ていた。成田凌は良い俳優だし、時間があったら見に行こうかなと考えつつ、なんだか地味そうな恋愛映画だし、何しろコナキンエンドの三大怪獣を見なくてはいけなかったのでそのままGWが過ぎてしまったのである。

 気が付いた時、ああそう言えば『愛がなんだ』の興行はもう終わっちゃっただろうな、と思った。岡崎京子の原作で話題性もあり内容も良かった日本映画『チワワちゃん』(同じく成田凌が出ている)が、どれほどのスピードで打ち切られていったか覚えていたし、ましてやあのGWである。でもどっかのマニアックな映画館で単館上映くらいはしているんじゃないか?と調べてみた時、異変に気が付いた。

 『愛がなんだ』は生き残っていたのである。それもTOHOシネマズのような大手シネコンで、あの三大怪獣が暴れまわったGW激戦で。それどころか、見る予定だった109シネマズ川崎での日曜日の上映は「売り切れ」マークがついていた。売り切れ?公開から一か月近くにもなる、60館公開程度の映画がソールドアウトで入場お断りだって?

 

 『興行収入を見守りたい』という調査サイトがある。全国の映画館のインターネット予約状況から観客動員を推定するサイトだ。そこの調査によれば、『愛がなんだ』の公開からの観客動員先週比は、83%→91%→101%である。早い話が大作に押されて規模が縮小されるのに観客動員がまったく落ちず、それどころかついには増え始めているのだ。これが売り切れの理由である。5月11日-12日の週末データを見るといかに異常なことが起きているのかわかる。コナン・キングダム・エンドゲームと言った人気作でさえゴールデンウィーク開けは激しく動員先週比が落ち込む。これは毎年のことである。だが、50%60%、先週比30%も珍しくはないトップ25の作品一覧の中で、ひとつだけ異常な作品がある。

23位  68館公開 101.3% 愛がなんだ

https://mimorin2014.blog.fc2.com/blog-entry-29393.html

 何かが起きている。映画興行に関心のある人間で、このデータを見て「映画館で何か予想外のことが起きている」と気がつかない人間はいない。木曜日、109シネマズで僕はどうにか『愛がなんだ』を見てきた。そしてスクリーンでは、やはり何かが起きていたのだった。

 

『愛がなんだ』という映画を言葉で説明するのはとても難しい。何か特別なシチュエーションとか、特別な人物が出てくる映画ではないからだ。端的にいってしまえば数人の男女が報われない片思いをするという、そんなものどこにだってあるだろうという映画に過ぎない。この映画の説明の難しさは、配給の宣伝や映画記事にも表れている。『成田凌の“ダメ彼氏感”全開!』『岸井ゆきの成田凌がイチャイチャすぎる!』『切なすぎる』これらは映画記事や宣伝動画のヘッドラインだが、この映画を見ていない人は「ああそういう映画、その手のジャンルの映画なのね」と思うだろうし、見た人は「ちがうよ、全然そういう映画じゃねーんだよ…」と思うだろう。じゃあどういう映画なのかというと、まったく説明できないのだ。これはアベンジャーズエンドゲームのネタバレをしてはいけないとかそういう話とは本質的にちがって、ストーリーを頭から最後まで全部説明しても何一つ伝わらないのである。さっきも言ったように、ネタバレもへったくれも、若い男女が片思いをするという、少なくとも表層的にはただそれだけの映画で、それを説明するのは絵画を説明する時に「あのね、黄色い絵の具でひまわりが描いてあるんですよ」とか、音楽を説明する時に「たくさんの人が楽器を弾くんですよね」と言ってるに等しい。

 でも多くの人は―――すべての人とは言わないまでも、片思いの経験がある人の多くは―――この映画を見て「ここに何か重要なことがある」と思うだろう。ある人にとっては「ここにすべてがある、少なくともあの時の私のすべてが」と思うかもしれない。これはそういう映画である。

 

 

この映画が何であるかを説明するのには、この映画が「何ではないのか」から説明すべきなのかもしれない。映画宣伝で誤解している人もいるかもしれないが、成田凌が演じる田中守は、少女漫画原作映画で定番の「ドS王子」ではない。彼は壁ドンもしなければ顎クイも頭ポンポンもしない。少女漫画の王子様というのはそれがどれほど暴君に見えようとも、最終的には主人公のためだけに作られた幻であるのだが、マモちゃんこと田中守はそもそも主人公テルコに何の興味も持っておらず、別の年上女性に恋をしている。この映画はそのマモちゃんへのテルコの一方的な恋愛感情を描いた映画なのだが、男と女は結局そういう従属的な関係が好きなんだよ、という論理に落とし込まれるのを避けるために、原作でも映画でも「女に従属する男」として葉子ちゃんとナカハラくんの関係が描かれるし、「恋愛に依存しない女」としてのすみれさん(マモちゃんの片思いの相手である)が描かれる。葉子ちゃんとナカハラくんの関係は「恋に落ちたら男女のジェンダーロールなど吹っ飛んでしまう」ということを描いているし、実にフェミニズム的キャラクターであるすみれさん(江口のりこが素晴らしい)に恋するマモちゃん、そのマモちゃんにまったく従属的な恋愛を求める、まったくフェミニズム的ではないテルコという関係は恋愛の不条理を構造的に描いている。

 これはある意味で性や恋が持つ狂気のような感情のエネルギーと、倫理やフェミニズムという理性の激突を描いた映画だ。そう書いてしまうと「ははあ、理性と感情の相克ですね」という箱にあっさり放り込まれて処理されてしまうわけだが、この映画の本当のすごさというのは、その「恋の狂気」という、あらゆるラブソングやら映画やらで決まり文句として使われる歴史的に手垢のつきまくったモチーフを撮影している時に、現場で何かの化学反応が起きてしまい、マジでリアルな何かが映画的に撮影できてしまった、ということなのだと思う。わけのわからない例えで申し訳ないのだが、商業ホラー映画を撮影していたらスクリーンに本物の悪魔が映ってしまったみたいな状態だと思う。そしてその恋愛の悪魔は、こういってはなんだが、神よりもはるかに魅力的なのである。それこそ悪魔的に。人が人に片思いしたときのあの圧倒的なエネルギー、その前では男尊女卑のジェンダーロールと女性の自立を求めるフェミニズムという正反対の二つの思想が同時に簡単に吹っ飛んでしまう。それがテルコ→マモちゃんと、葉子←ナカハラという二組の意味であり、そもそも正しいのは神と悪魔のどちらなのか?もしかして悪魔こそが生命を生んだ古い神であり、神と呼ばれているのは近代自我がでっち上げた出来損ないのからくり人形ではないのか?という不気味な問いを映画は突き付けている。重要な点は、原作の角田光代氏や今泉力哉監督が「フェミニズムや近代を否定してやろうぜ」と思って「愛がなんだ」を作ったわけではなく、逆に明らかに「近代による悪魔祓い」を意図した作品だったのに、作り手の予想を超えて岸井ゆきのという女優に本物の悪魔が憑依して、観客に向かって「現代人は愛しうるか(D.H.ロレンス)」という古き悪魔からの問いかけのまなざしを向け返すような映画になっているのである。近代映画が恋愛の深淵をのぞき込むとき、深淵もまた映画をのぞきこむ。日本の平凡な男女の片思いを描いた物語でありつつ、これは近代と恋愛におけるある種の全体小説なのだと思う。

 

もうひとつの特徴として、この映画の観客動員の伸びが、地上波テレビや大規模宣伝の結果ではないのはもちろん、映画マニアやSNSでさえも本当の中心ではなく、「普通の子」たちによる本当の意味での口コミ、アナログな人から人への伝達で起きているということだと思う。実際、もちろんツイッターでも熱い感想はあるし、玉城ティナさんはじめとする芸能人の感想も多くある。でも劇場に行った人ならわかると思う。昨日の5月16日木曜日109シネマズで僕は『愛がなんだ』を見たのだが、圧倒的に高い女性率、三割近い制服の高校生率。そして我ながら非常に言いにくいのだが、明らかに僕が浮き上がってる感じの「ちゃんとリアルを生きてる感」に満ちた観客たちなのである。こういうと「けっ、結局はリア充のコイバナ映画かよ」とあなたは思ってしまうかもしれない。まあ気持ちはわかる。自分で言うのもなんだが、映画を見た後でこうしてなんだかんだと屁理屈を書き込む映画ファンとかブロガーとかツイッタラーというのは結局はオタクの巣窟なのである。なんだとこの野郎。すみません自分で書いて自分で腹を立ててしまいました。でもそうなのである。恋や仕事と言う現実を生きている男の子や女の子は映画を見た後に感想を3000文字も書いているヒマはないのである。今この時点で3920文字ですけどね。ほっといてくれよ本当に。でもそうなのである。延々と理屈をこねくりまわした挙句に「ここで『現代人は愛しうるか(D.H.ロレンス)』とか引用してみるのどう?」みたいな自意識に溺れているヒマのない、今を生きている子たちが、それでもこの映画のことを誰かに言いたい、言葉でうまく言うことができないからまるごと見てほしい、という思いで友達を劇場につれてくる、それが『愛がなんだ』の観客動員の異常な伸びなんだと思う。僕たちオタクは「リア充には悩みなんかないだろ、あいつらに複雑な内面なんかないんだよ」的な言説を好みがちだ。映画の中でテルコが葉子に「寂しくなることってあなたにもある?」と尋ねるように。でも葉子が「あるに決まってんでしょ」と返すように、彼らもまた傷つき、近代に収まらずに噴き出す感情、人を恋に狂わせストーカーを作り出す古い悪魔と、人間を四角い箱に入れて管理する近代の神のどちらが正しいのか必死で答えを探している。彼らも、いや現実を生きる彼らこそ切実に片思いや失恋をするのである。昨日の劇場では、女子同士数人で来たグループが、泣き出してしまった友達の一人の肩を抱いて帰っていった。マスクをした制服の女の子が、ちょっと成田凌っぽく見えないこともないこれまた制服の彼氏の脇腹を小突きながら「共感しすぎて吐きかけたじゃんよ」と笑っていた。小突かれた高校生の彼氏は脇腹を抑えながら言っていた。「だからまあ、俺らみたいなやつのための映画なんだよ」

その通りだ。恋をしてる男女はいつも正しいことを言う。マスコミでもオタクでもシネフィルでもなく、これは切実に、彼らの映画なのだと思う。

 

 この映画の興行はまだまだ終わらない。それどころか監督のツイッターによれば、本日5月17日から上映はさらに拡大するとのことである。見る価値のある映画、この時代における普通の人たちにとっての、本当に切実な、世界の重要な秘密について触れた映画だと思う。