『凪待ち』の香取慎吾の演技にさす深く暗い影と、ある『王の死』についての話

f:id:Cinema2D:20190712081003j:plain

6月28日の公開からずっと、映画『凪待ち』に主演した香取慎吾への絶賛が続いている。最初から興行規模は大きくなく、内容も家族連れやカップルが喜ぶような楽しいものではないにも関わらず、観客動員も好成績を上げている。本来『凪待ち』は単館やミニシアターを中心に公開されるジャンルだと思う。それが大手シネコン系列で公開され、アニメやファミリームービーと名を連ねて観客を動員するのは言うまでもなく主演の香取慎吾のネームバリューが大きく、彼は演技に対する評価だけではなく、映画の公開規模をワンランク上に引き上げてしまうスター性もあらためて証明したことになる。実際、俳優として香取慎吾の将来は明るいと思う。この映画を見て香取慎吾を俺の映画に欲しいと思う映画監督は引きも切らないだろう。それほど『凪待ち』の彼は素晴らしいと思う。光がすぐそこに見えているのに足元に口を開ける心の暗闇に引きずり込まれていく、その悪夢のような焦燥感と不条理に満ちた人物がそこにいる。

 香取慎吾に対する映画観客や関係者の賛辞はまったく正当な評価だろう。しかし、と思う。それは本当に演技なのだろうか。香取慎吾は役作りとして、あの主人公をゼロから構築したのだろうか。香取慎吾を称賛したいと思いつつ、僕にはまるでそれが、本当に片足がマヒした人間が足を引きずって歩くのを見て「素晴らしい演技だ」「歩行障害を見事に表現している」と手を叩くような行為に思えて、なかなか『凪待ち』の感想を書くことができなかった。

もちろん実際の香取慎吾は映画の主人公のように破綻しているわけではない。この映画の撮影だってきちんとスケジュールを守り、セリフを覚えて仕事を成し遂げている。彼が長い間芸能生活を送ってきたプロフェッショナルであることは疑いもない。でもこの映画の中の主人公の漂う生きることの疲れ、どうしようもない虚無感、それは頭で計算して構築された演技というよりは、香取慎吾の肉体が空気のように纏っている傷跡や障害のように思える。

 

それは『新しい地図』で活動を共にする稲垣吾郎や草彅剛たちにも感じることだ。阪本順治監督に抜擢された『半世界』の稲垣吾郎は、どこか成熟と現実を拒絶するような大人になり切れない父親の演技で高い評価を受けた。『台風家族』は出演俳優の不祥事で公開のめどがたっていないが、『クソ野郎と美しき世界』で見せた草彅剛の虚無的な暴力、『まく子』の父親役で演じた逸脱者としての演技は素晴らしかった。(香取慎吾もインタビューで『凪待ち』のオファーが来たとき「俺なの?剛じゃなくて?」と思ったと答えているのを読んだ記憶があるから、彼ら自身の中でも草彅剛が俳優として頭一つ抜けているのは了解事項なのだと思う。)香取慎吾稲垣吾郎、草彅剛の三人は、まったく違うタイプの性格俳優として同時に映画界で評価を受けるという、これ以上考えられないほど理想的な成功をおさめつつある。でもその演技は、もちろん彼ら自身のプロフェッショナルな演技や表現であると同時に、彼ら自身の肉体に焼き付けられた強烈な暴力の痕跡であるように思えて仕方がないのだ。稲垣吾郎の否認、草彅剛の虚無、香取慎吾疲労、彼らの演技の違いは俳優としての個性の違いであると同時に、ひとつの大きな事故に出くわした乗客がどんなケガをしてどのような障害を背負ったか、その後遺症の違いのように僕には思える。

今月9日、かつて彼が所属した巨大な芸能事務所の社長が死去したというニュースがメディアを覆いつくした。それはまるでこの国の王が世を去ったような、かつてない報道だった。その芸能事務所に所属するグループの解散騒動や事件報道において、その王は一度もカメラの前に姿を見せることはなかったし、どのテレビ局も王の姿をカメラで撮影して放送しようとはしなかった。天皇にすらスマホのカメラがためらいなく向けられるこの時代に、それは完全なアンタッチャブルに見えた。

 香取慎吾稲垣吾郎、草彅剛の『新しい地図』の三人、そして木村拓哉中居正広を含めた彼らのグループは、そのすさまじい力の渦巻く中で十代から人生のほとんどをすごしてきた。死が報じられた王と、彼らが個人的にどこまで関りがあったかはわからない。あるいはほとんど顔を見ることもないほど上にいた存在だったのかもしれない。しかし王の力は、彼らを十代から巨大な大衆の前に生贄のように差し出した。大衆はある時には彼らを称賛し、ある時には深く傷つけてきた。ローマ皇帝が剣闘士をライオンと戦わせるように、彼らは王の代わりに大衆という怪物の前に晒され、格闘してきたのだと思う。彼らの演技を見るたびに、僕は彼らの肉体と人格に刻まれた強烈な痕跡、まるで後遺症のように残るその経験の残酷さを感じる。その影の暗さは「演技力」と呼ぶにはあまりにも彼らの体に深く刻まれた障害のようにさえ見える。それはたぶん大衆という怪物の歯形であり、彼らの人生を丸ごと消費してきた僕たちが彼らに残した傷跡なのだと思う。

 『クソ野郎と美しき世界』の中で香取慎吾が演じる『慎吾ちゃんと歌喰いの巻』と『凪待ち』にはいくつかの共通点がある。『クソ野郎と美しき世界』において香取慎吾は本人の名前で芸術家を演じるのだが、その傍には彼の芸術を食い殺す『歌喰い』の少女がいる。『ウィーアーリトルゾンビーズ』で名をはせ、おそらくこれからさらに映画界を席巻することになる中島セナのデビュー作だった。

twitter.com

『凪待ち』にも内縁の妻の娘を恒松祐里が演じている。二つの映画はあるどちらも香取慎吾と少女の物語として撮られている。傷ついた中年男性と少女、というのは映画のひとつの類型ではあるのだが、香取慎吾という俳優にはその物語の中にあってもどこか少女に対する欲望を感じさせない、支配性を欠いた奇妙な空気が漂っている。『凪待ち』の中で主人公は暴力団や通りすがりのチンピラ、同僚にいたるまで何度も乱闘や暴力沙汰を演じるのだが、性においては主人公は妻にもその娘にも男性性を欠いているようにさえ見えるのだ。それは香取慎吾の演技でもあり、同時にたぶん、彼の肉体がもつ傷跡でもあるのだと思う。

 『クソ野郎と美しき世界』で最も美しいのは三人がそれぞれに影を演じたあとにやってくる四つ目のシークエンス、『新しい地図』として彼らが歌い踊るステージショーのシークエンスである。そこでは草彅剛も香取慎吾稲垣吾郎も、まるでさっきまでの映画の中で彼らがそれぞれに引きずっていた後遺症など存在しないかのように、傷1つないアイドルとしてもう一度ふるまってみせる。もちろんそれこそが、彼らが人生の大半をかけてきた演技で、映画の中で彼らが見せ「名演技だ」と称賛されるものは、彼らがアイドルの演技の裏にかくしてきた生々しい肉体なのだと思う。香取慎吾が吐き出すように演じるその裏側を見ながら、僕は彼らがもう一度光に満ちたステージの上で、傷跡を隠し希望を演じる日のことをずっと考えていた。