映画『惡の華』感想。女優・玉城ティナがこの世に生まれ直したようなバースデーシネマ。予告編のイメージを裏切る切実で人間的な物語。

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モデル雑誌の表紙を飾る時、写真の中の玉城ティナはいつも完璧な美少女に見える。全芸能界を見回しても二人といないのではないかと思うほど大きく印象的な目。「人形のよう」「絵から抜け出したよう」と観客によく形容されるそのルックスは、彼女をあっという間にトップモデルに押し上げ、女優の道を開いた。

でも映画やドラマで見る玉城ティナには、写真よりも多くの情報が含まれている。そこには声があり、表情から表情への動きがある。心の迷いがあり、繊細で微妙な感情がある。動画で見る玉城ティナは「お人形のように美しい」女優ではなく(それでも他を圧倒する程度には美しいのだが)、人間的な親しみ、曖昧さに満ちている。

言ってしまうと、動画で見る玉城ティナはわりと性格の良さというか人柄の親しみやすさ、「普通にいい子」というのがにじみ出てしまっていて、あんまりミューズ然、ファムファタール然としていないのである。ファムファタールというのは合コンで周りをキョロキョロして「あっ空いたグラス返してきましょうか?」みたいな気の使い方をしてはいけないのだが、動画の玉城ティナはそういう下町の女の子のような人柄のよさ、親しみやすさが漏れ出てしまうようなところがある。

女優としての玉城ティナは、そういう「王女のように美しい外見と、町娘のような人のよさ」の間で、進むべき道に迷っていたようなところがあったと思う。

 

映画『ダイナーDiner』で、蜷川実花監督は玉城ティナのもう一面、ファムファタールでない、弱気な女の子の一面を上手く使って映画にしていた。プロの殺し屋たちに翻弄される何のとりえもない女の子がやがて成長していく、という平山夢明原作とは思えない少女漫画の王道物語のドジでのろまな主人公として、玉城ティナは輝いていたと思う。

でも、映画『ダイナーDiner』にはたったひとつだけ欠点がある。それは玉城ティナの演じるヒロイン、大場加奈子(オオバカナコ)の「何の取柄もない、誰にも相手にされない、社会に見捨てられた女の子」という設定である。

玉城ティナ演じる大場加奈子は金に困り、短期で稼げるアルバイトを探して殺し屋の巣に迷い込むのだが、観客はここで目をつぶらなくてはならない。「いや、あんた可愛いでしょ。仕事も彼氏もすぐ見つかるでしょ」ということに。

もちろん、大概のドラマの中で主演女優なんて可愛い美人が平凡な女の子を演じているものである。広瀬すずだって有村架純だってみんな可愛い。しかし、ことルックスに関して、玉城ティナという人の顔立ちは「まあ映像上は可愛いけど平凡な女の子ってことにしておくか」という領域をはるかに振り切ってしまうほど際立って美しいわけである。単純に目の大きさ一つとってもまわりのキャストとまるでちがう。ガールズバーどころかモデル事務所に所属すればあっという間に天下を取ってしまうほどの美しさなのだ。

女優としての玉城ティナの困難はここにあって、「平凡な町娘を演じるには美しすぎ、高貴なお姫様を演じるには優しすぎる」という、心と体の間のギャップの中で迷ってきたようなところがあると思う。

 

惡の華』は、そういう玉城ティナの矛盾をそのまま物語に生かし切った映画として成功している。玉城ティナの演じる仲村佐和は最初、典型的なファムファタールとして主人公の前に現れる。それはクラスの優等生、秋田汐梨演じる佐伯奈々子を聖なるマドンナとして崇拝する一方、玉城ティナの演じる仲村佐和を「誘惑する魔女」として二分する、思春期の少年に典型的な女性観に見える。

しかし映画は中盤から「聖と性」の二分を覆していく。玉城ティナの演じる仲村佐和の息もできないほど痛切な内面が描かれ、秋田汐梨演じる佐伯奈々子は理想化された女神などではない生々しい感情を見せる。そして主人公はそのどちらでもない、誰にも見せない小説を書き続ける第3の少女(飯豊まりえが素晴らしく人間的に演じている)に出会い、やがて思春期の轍を抜け出していく。

思春期の少年の寓話、成長物語としてとても優れた映画になっている。暗闇から光へ。アダルトビデオ監督出身の井口昇は、即物的なヌードをほとんど見せることなくこの映画を撮りきった。徹底的に性を主題にした映画でありながら、終わってみれば玉城ティナはパンツ一枚見せてはいないのである。見せてないって。玉城ティナのパンツなんか映ってたら僕が忘れるわけないだろ。アホかお前は。まあ盗んだパンツは洗濯物みたいに映ってたけど。

僕は舞台挨拶つきの試写でこの映画を見たのだが、8割ちかい女性の観客のかなりの部分が伊藤健太郎のファンだったと思う。盗んだブルマで走りだすという生き恥尾崎豊みたいな思春期の少年役を演じるのは伊藤健太郎にとっていいイメージではないわけだが、満場の女性観客は伊藤健太郎以上に大きな拍手を井口昇監督に送っていた。この映画が中盤から加速するヒューマンな主題、男女の橋を越えて互いを人間と認める主題を観客が感じ取らなければ、あんな拍手は起きないと思う。

残念なことに、予告編の飛び道具的なイメージが先行したこの映画は敬遠されたのか、なかなか動員が伸びていない。でも素晴らしい映画だ。見ればあなたにもきっとそれがわかる。

この映画の中で、玉城ティナは人間としての自分、ファムファタールとしての外見も、迷い悩む内面も含めた人物像を初めてまるごと演じている。今日10月8日は玉城ティナの22歳の誕生日だが、これは女優・玉城ティナがあらためて演技者として生まれなおす第二誕生日となったような作品だと思う。試写の舞台挨拶で、高校の同級生だったという飯豊まりえに「ティナは勉強も出来て友達も多くてスターだった、ふたりでいつか共演できたらいいねと話していた」と明かされる玉城ティナも、本を読み、ツイッターで迷いを吐露する玉城ティナもどちらも一人の人間の両面である。

良い映画がひとつ生まれ、良い女優がひとり誕生した。いや、飯豊まりえも良いし、弱冠16歳の秋田汐梨の演技力もすごいんだけど、やっぱりこの映画は玉城ティナの記念碑的なバースデーシネマだと思う。あなたもぜひ、多少遅れてもきっと玉城ティナは許してくれると思うので、映画館の暗闇の中で彼女の女優としての新たな誕生日を祝ってほしい。