『劇場』を「沙希の自立の物語」に読み替えた松岡茉優のシュートと、山﨑賢人のアシスト

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松岡茉優の挑戦をアシストしたのは山﨑賢人の衛星的演技だと思う

デジタルフライデー様で映画『劇場』について書かせていただきました。

 

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「原作と読み比べた差異で初めて見えてくる映画版の意図がある」ということは色んな場面であって、「ここ変えたんだ」「ここカットしちゃったの?」というのはそのまま映画の演出や脚本への賛否につながる。そういう意味ではこの『劇場』という映画、単体で見たら「永田くんクズだなあ」という所だけに目がいってしまうところがあるんですけど、又吉直樹の原作を読むと「あっ、こんなに変えたんだ、これは沙希の映画になってるなあ」とすごく思う。

 

原作の永田って、もっと雄弁なんですね。ダメ男はダメ男なんだけど関西弁で演劇論、芸術論をまくしたてる男で、良くも悪くも情念が濃くて押しが強い。又吉直樹の小説というのは『火花』もそうなんだけど、そうしたアウトサイダー的男の子たちの逸脱した情念と近代社会のぶつかりを描いていて、その辺がすごく文壇受けしてるところもあると思う。原作ですごく象徴的なのは、永田が青山(映画版で伊藤沙莉が演じた劇団員→ライターの女性)と喧嘩する場面で、ほとんど小説というよりフェミニズム批判演説みたいな長広舌を関西弁で振るう場面がある。以下引用です

<<「お前が西洋の差別的文化へのカウンターで生まれた思想を簡単に受け入れることができてしまうのは、お前が対人において、それに似た扱いを受けてきたからやと思う。だから、お前の言葉はカタカナばっかりやねん。お前が自分自身を守る思考を持つのは勝手やけど、それを他の人間にも強引に当て嵌めようとすんな。母のような人間は、お前の価値観に蹂躙されて、『全部間違ってました』と負い目を感じて生きていかなあかんのか?そんなはずないやろ」

ここでいう母とは、ほとんど沙希のことかもしれない。>>

 

えー、書いたのは又吉直樹さんなので僕に物を投げないでほしいんですが、これでも全体の3分の1くらい。又吉さん安保法制の時は松本人志の目の前で異論を述べたりしてかっこいいリベラルなんですけどね。フェミニズムに対して認知が歪むリベラル男性っていますよね!これ僕がツイッターでよく言われるやつ他人に決めてみたんだけどう?どうでもいいですか。とにかく相当な反フェミニズムのメッセージというか、ある種作品のテーマがそれと言っていいくらい作品のテーマを半ば登場人物が自白するようなシーンなんですけど、青山を松岡茉優の盟友、伊藤沙莉が演じた映画版ではここは丸ごとカットされている。というか、映画版の永田はこういうイデオロギーから隔たった、子どものように未成熟な男として描かれている。‪山﨑賢人は前半と後半でかなり演技を変えているんですけど、よく見ると永田は成長してるんですね。でも、永田の成長によってようやく精神年齢が並んできた沙希と永田は別れる。成長したのに別れるのではなく、成長したからこそ親子関係が終わるように自立していく。映画も原作もキスシーンラブシーンがほとんどないんですけど、それはこの物語が恋愛物語ではなく擬似母子関係の物語だからだと思う。ラストシーンの沙希の「ごめんね」は、成長途中の子どもを残して家を出る母親のような「ごめんね」だと思う。

 

松岡茉優はもちろん「原作のテーマを変えました」というあからさまな批判は避けているんだけど、実際映画を見ると沙希の造形は相当に変わっているというか、永田に対する影のような存在だった沙希が、映画版では永田が影になるような演技をしているんですね。そして‪山﨑賢人は少女漫画映画原作で主演していた頃から「自分の外部に中心を持つ」ことができるというか、太陽の周りを回る惑星、あるいは地球の周りを回る衛星のような演技がすごく上手いんですね。2人のコンビネーションがこの映画を変えていると思います。

 

興味深いのは、松岡茉優という人は若い世代の女優の中でもかなりフェミニズム寄りの感性を持っている人だと思うけど、「別れさせるつもりでオファーを受けた、でも沙希は幸せだったんだと思う」と映画館で配られるカードに書いている。「幸せだった」けど「幸せなんだ」ではない。今後の未来について、永田と別れると言う松岡茉優の意見はラジオでもインタビューでもまったく揺らいでいない。それは未来への批判と過去の肯定が半ばする言葉なんだと思う。松岡茉優又吉直樹の原作小説に半分NOと言い、半分YESと言う。そこは松岡茉優という人の感性が今の学問からこぼれた女性性まで拾ってるということなんだと思う。

 

記事でも書いたんですが、男性クリエイターのミューズ、ファムファタルとして女性が消費されてきた歴史があるとして、優れた才能を持つ女性がクリエイターになって男性を描く、という方法がひとつある。でもこの「劇場」のラストというのは、女性が観客として自立する、クリエイターとしてではなく観客としての批評性を持つことで自我からの距離を取るというラストなんだと思うんですよね。作家は選ばれた人間しか慣れないけど、観客はある意味で誰もがお互いに対する観客なので、受け身の存在が批評する者として逆転する結末、沙希が意志と権力を持つラストになっている。これはある意味で又吉直樹が継承する日本文学から、‪山﨑賢人が演じてきた女性視点の少女漫画の文法へのバトンタッチなんですね。だから山﨑賢人だった、原作のような強いエゴで沙希を圧倒するのではなく、空洞のようにうつろで、だからこそ沙希の雨宿りの洞穴になるような人物として永田を演じている。原作の関西弁をあまり使わない永田にしたのも、情念で沙希を押し切る永田にしないというコンセプトだったと思う。山﨑賢人は松岡茉優と相当に話しあっていたらしいけど、「沙希のための映画だ」というコンセプトは2人の間で共有されていたと思う。行定勲監督と、たぶん脚本の蓬莱竜太さんの意図が大きいんじゃないかな。そしてもちろん、松岡茉優という人の強い意志がある。出る価値のある映画にしか出ない女優だと思う。

 

劇場公開は13日木曜までとのことで、ぜひおすすめです。記事で書いたカードとかまだもらえんのかな?

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でも劇場公開が終わってもAmazonプライムでぜひ‪山﨑賢人の過去の出演作を見返してほしい。本当に一作一作違う、丁寧に演じているのがわかると思います。主演俳優、背番号10を背負うエースなんだけど、自分が激しいマークを受けてもチームが勝てばいい、共演者がシュートを決めて映画が勝てばそれでいいと思っているようなところがあると思う。僕が彼の出演作で特に好きなのは「羊と鋼の森」で、彼が演じるのはピアノの調律師というある種の裏方なんですね。もちろん山﨑賢人というのは堂々たる主演俳優で人気スターなんだけど、「自分を見せる」「俺を見ろ」というよりは、主人公という劇中人物の音程を精密に裏側でチューニングする、そういう演者としての裏方、黒子意識みたいなものが彼の中にはあるような気がします。