映画『岬の兄妹』感想。優れた俳優が弱者を演じることの意味について

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フョードル・ドストエフスキーは神に見捨てられた人々をこの上なく優しく描き出しました。神を作り出した人間が、その神に見捨てられるという凄絶なパラドックスの中に、彼は人間存在の尊さを見出したのです。ぼくは闇の中でみみずくんと闘いながら、ドストエフスキーの『白夜』のことをふと思い出しました」

村上春樹神の子どもたちはみな踊る』収録『かえるくん、東京を救う』

 

韓国で1年間暮らし、ポン・ジュノ監督の下で助監督を務めた若い才能、片山慎三監督が2年間をかけて撮り上げた映画。パンフレットには日本の映画関係者、批評家、俳優から監督への賛辞が多く寄せられている。障碍を持つ兄妹と、その経済的困窮、そして自閉症の妹に売春を斡旋する兄を映画は描いていく。

この映画が公開されたのが平成初期の日本であったら、もしかしたら今とは違う形で消費されていたのかもしれない。サブカル、鬼畜系といった文脈の中でカルトムービーと呼ばれ、文化的スターたちが口を笑いに歪め、道端の犬の死体を棒でつつくように安全な場所から映画を語っていたのかもしれない。でもその時代はもうない。2019年の今、この映画は犬の死体ではなく生きて人を食う獣だ。日本の経済的没落は貧困を再びリアルなテーマにした。運良く金を稼いで貧困から逃げ切ったとしても、津波のような高齢化は全ての日本人を飲み込んでいく。僕たちはやがて老い、この映画の兄のように足をひきずり、妹のようにコミュニケーション能力を失う。笑うものはもういない。この映画はサブカルでも鬼畜系でもカルトムービーでもない。この映画と僕たちの間にかつてのような安全で傲慢なガラスの仕切り板はもうない。これは僕たちの映画なのだ。

賛辞の多くは片山監督に寄せられているが、(そしてその高い評価は妥当だと思うが)この映画は俳優が当事者性を担保した映画だと思う。アニメーションでもCGでもなく、生きた人間が自分の身を捧げて演じることで倫理の秤がようやく中心で均衡を取る物語だ。それは自らも映画監督である中村祐太郎が俳優として障害者の買春客を演じているからだけではなく、自閉症の妹を演じる和田光沙は、俳優がマイノリティを演じることに対するひとつの答えを観客に提示しているように見える。映画の妹、真理子のような自閉症の女性がいたとして、彼女は脚本を読みカメラの前で演技をしない。傷つけられる痛みを表現しようとすれば、彼女を本当に傷つけることになる。あるいは傷つけられる弱者をスクリーンに映さないことになる。だから俳優が演じる必要があるのだ。それも最も優れた俳優が。真理子を演じる和田光沙は彼女の弁護士でもあり、真理子に対する全世界の搾取を告発する検察官のようにも見える。健常者が障害者を真似るという行為をこえて、貧しい語彙の向こうにある感情構造の複雑な混沌、魂の輪郭を描いていく。たとえこの映画が『レインマン』のように美しい物語ではなく、真理子がレイモンドのように奇跡を起こす能力を持たず、ダスティン・ホフマンに与えられた名誉と賞賛がその役の上に降り注ぐことがないとしても。それはやはり人間のなしうる最も優れた演技であり、映画の主語を三人称から一人称に書き換えているのは俳優たちのそうした献身と才能によるものだと思う。

たとえ文芸批評が「作者の死」を宣言しても、映画の観客は語り手に顔を求める。子供が絵本を読む母親の顔を見上げるように、洞窟の炎に照らされた語り部の顔を見る太古の人々のように、僕たち観客は片山慎三という新しい優れた映画監督が何者なのか知りたいと願う。この映画の評価や好悪が別れるとすればそこだと思う。救われない弱者を描くのはアイロニーなのか。それとも怒りなのか。片山監督は透明な神のようにただそれを見るだけなのか。彼は映画の中の誰の最も近くにいるのか。彼は私たちにとって何者なのか。最初の長編映画となるこの作品で、それはまだ明かされていないように見える。片山監督の代わりに一人称を引き受け、「この人物は私だ、これは私とあなたの映画だ」と観客に語りかけたのは、兄や妹、いじめを受ける少年、老人、そうした多くの弱者を演じた優れた俳優たちだったと思う。