映画『フォルトゥナの瞳』感想 高畑勲と『かぐや姫』を作った女性脚本家は百田尚樹原作小説をいかに生まれ変わらせたかの検証

f:id:Cinema2D:20190317075825j:plain

百田尚樹先生の原作小説を赤ペン先生のごとく修正して良作に変えた坂口理子脚本

映画版『フォルトゥナの瞳』は三木孝浩監督作品。そして脚本は坂口理子氏である。HKT48にもまったく同姓同名のメンバーがいるがもちろん別人で、坂口理子氏は『かぐや姫の物語』で高畑勲と共同脚本を担った女性脚本家である。『かぐや姫』の脚本作業がどれほど難航したかは有名な話だが、高畑勲一人があれこれ理屈をこねてまったく進まないので業を煮やし、坂口理子氏が途中から投入された経緯はここにある。↓

 

かぐや姫』公開後は高畑勲の才能に絶賛が集まるのに比べ、坂口理子氏の功績については語られることが少なかったように思うが、「あの高畑勲と共同脚本で映画を完成させた」という事実だけでズバ抜けて優れた才能なのがわかると思う。なぜなら高畑勲という人はズバ抜けて優れた才能でなければ共同脚本など絶対に許さず完膚無きまでに叩き潰してしまう人だったからである。ちなみに『メアリと魔女の花』も米林昌宏監督と坂口理子氏の共同脚本、映画版『恋は雨上がりのように』も坂口理子脚本作品である。『メアリ』も米林昌宏監督の構成力が上がったと言われていたが共同脚本の坂口理子氏の力があったわけだし、『恋は雨上がりのように』も、誤解を受けやすいテーマ、そして原作の分量を2時間に見事に編集した脚本力が光る作品だった。要するに坂口理子氏、難しい作品や困った時の日本映画界の影の切り札、ブラックジャックやドクターXみたいな女性脚本家なのだ。

(ここからネタバレを含みます)

坂口理子脚本は百田尚樹先生の原作小説にかなり手を入れ、映画化に耐えるようにリライトしている。例えばどのようなところが変更されているのか。

① 

原作小説:主人公は火事で両親と妹を失った青年である

映画版:主人公は有名な航空機事故の生き残りであり、周囲の人間がほとんど死ぬ壮絶な事故で家族の中ひとり生き残ったことがきっかけで成人してから人の死が見えるようになる

言うまでもなく航空機事故の方が映像にした時の説得力がはるかに高い。家族を含めほとんどの人間が屍をさらす中、航空機の残骸の中をただ一人歩いて行く年端もいかない少年、という冒頭の映像はまさに物語のテーマそのものである。

原作小説:ヒロインはただなんとなく携帯ショップで偶然に出会う女性でたまたま主人公と同じ能力を持っている

映画版:ヒロインは主人公と同じ航空機事故の生き残りの少女であり、主人公に助けられていたことが最後のシークエンスで明かされる。ヒロインが主人公と同じ能力を持つようになったのも、同じ飛行機事故の生き残りだからである。

映画のネタバレにはなってしまうが、これも映画版の方が圧倒的にドラマチックであり、しかも必然性も高いというのがわかると思う。ヒロインが主人公を能力を知り、愛する理由というのも映画版では無理なく説明されている。

原作小説:主人公の能力の理解者、医師の黒川とはたまたま駅で出会い、たまたま能力を見抜かれる。

映画版:主人公が能力を使って人を助けた反動で心臓発作を起こし、運び込まれた先の医師が同じ能力を持つ黒川である。

これも映画版の方がはるかにスマートで流れが良い。というかなんで医者という設定なのに駅で出会わせるのか原作の意味がわからない。百田尚樹先生の原作小説はとにかくすべてのキャラをドラクエのモンスターみたいにランダムに登場させてしまうのである。これは小説を書き始めた中高生などが必然性とか伏線を貼る能力がなくてパンをくわえた女子高生が曲がり角でイケメンにぶつかるみたいにキャラとキャラを出会わせてしまうのに似ていると思う。しかも原作の黒川は意味もなく突然死んでしまい、その理由というのは小説の中ではさっぱりわからず「考えても仕方ない」という主人公の身もフタもないモノローグで処理されている。まあ「人はいつ死ぬかわからないのだから人々を救うためにこの身を捧げよう」と主人公が決意するための仕掛けではあるのだが、あまりにも適当なのでこのシークエンスは映画版でバッサリとカットされている。

この他にも同僚の金田に対する描き方も、主人公の仕事を手伝うという形でよりヒューマンな形でリライトされているし、原作における金田の手が透けて見えるからこいつが列車事故の原因なのだ!という、冷静に考えると何一つ成立していない推論も映画では取り下げられている。原作版ラストシーンの置き手紙、『今まで言ったことがなかったけど愛してると言うよ』『前に言ったことあるじゃん。でも敢えて言いたかったのね』という、まったく意味がわからない、ラストの一番大事なところをなんでこんな適当に処理するのかわからない場面も、映画版では指輪という小道具を使ってよりスマートな形にリライトされている。

何よりヒロインの葵の人物造形が原作であまりにも適当というか、恋人が透けて見えて死が近いことを知っているのに何一つ言わないし何もしないのは不自然だろう。しかも透けて見えているだけでなぜ死ぬのか、なぜ死のうとしているのかは主人公しか知らないはずなのに、それこそ物語の女神のようにすべてを知っている。かつて細田守監督は『バケモノの子』という作品で、一切の事情を知らない普通の女子高生であるヒロインが渋谷に突然現れたクジラの化物に対して相手の人生をすべて見てきたような的確な説教を食らわすという伝説的な演出ミスをしたことがあるのだが、女性キャラクターが何も伝えられなくてもすべてを察している演出ミスは『母さんアレ取って現象』とでも名付けるべきなのだろうか。いずれにせよ映画版、坂口理子脚本はこのミスを完全とは言わないまでも、葵も葵なりに行動したのだがすれ違って悲劇を生むという、ロミオとジュリエット、あるいはOヘンリー的な物語にリライトしてフォローしている。

 

 これはまだほんの一部である。上げ出すと切りがないし文字数が増えてしょうがないのでもうやめる。ヒマでお金のある人は百田尚樹先生の原作小説を買って映画と対照してみてほしい。よく邦画では「良い原作をダメにした」と叩かれることが多いが、『フォルトゥナの瞳』に関してはそういう声はほとんど聞かない。映画版の方が全然よいからである。大胆なリライトというよりまるで脚本学校の先生が生徒の作品に修正を入れると見違えるように作品がよくなったりして「なるほど、伏線というのはこういう意味があるんですね」と感心したりするが(脚本学校に行ったことないけどたぶんそういう所だと思う)、坂口理子脚本はほとんど赤ペン先生状態で原作を良くしている。僕も映画を見た時は「う~む、百田尚樹という作家は色々と言われるが小説の腕はやはりたいしたものなのだな」とちょっと百田先生を見直した気分で原作を読んだのだが、映画版を見て同じように思っている観客に言いたい。あなたが感心している構成力や技巧の八割くらいは坂口理子脚本が加えた修正である。原作読んだらたぶんびっくりすると思う。

別に僕は百田尚樹先生が『日本国紀』を出版したりあれこれウヨい言動をしているので小説でも粗探ししてやろうとしているのではない。原作小説『フォルトゥナの瞳』にはヘイト色がない、主人公が意味もなく外国人の悪口を言ったりしない、その一点を持って双手を上げて歓迎してもいいと思う。百田尚樹先生が映画のヒットに気をよくしてこっちの方向に行ってくれるのであれば万々歳である。小説の構成がまずいくらいなんだよ。それくらい我慢しろよ。映画宣伝でも舞台挨拶やテレビ出演に出しゃばったり有村架純ちゃんと対談させろとゴネたりしてファンのモチベーションを下げなかったおかげで、映画版の『フォルトゥナの瞳』はちゃんと興収10億円を突破してヒットしている。ある意味で百田尚樹先生がおとなしくすっこんでいたおかげとすら言える。えらいぞ百田尚樹先生。

 

公平に言って、映画『フォルトゥナの瞳』は坂口理子脚本の手腕により、そんなに悪くない、(まったく矛盾や難点がないとは言わない。自己犠牲という原作のテーマはさすがに物語の核なので変えられない)手堅い映画になっている。ブラックジャック先生のおかげでピノコが歩いているようなものである。神木隆之介くんの演技は安定してレベルが高いし、有村架純もなかなか良かったとは思うけど、僕の個人的な好みで言うと有村架純のベストアクトは映画『3月のライオン』の幸田香子だと思う。神木隆之介演じる桐山零とは義理の姉と弟で、今作『フォルトゥナの瞳』の宣伝では「4度目の共演にして初の恋人役」という煽り文句だったが、いや零と香子めっちゃ怪しかったじゃないですか。明らかに何か関係あったという描写だったじゃないですか。でもまあそれは今はいいや。有村架純は何というのか、いわゆる有村架純っぽくない役の方が本気のパフォーマンスが出る女優に思える。内側から感情がほとばしっている時の有村架純はすごく良いのだが、逆に脚本に迷いを感じて役を捉え損ねている時はイップスのようにぎこちなくなることがある。そういう意味では自分に重ねられるかどうかでまったくパフォーマンスが変わる魂の女優なのだと思う。今回の役は界王拳で言うと2倍くらいかな。もっとポテンシャルがある女優なんだけど、今回の葵の役ってそれこそフォルトゥナという女神のように主人公を見守るみたいな所があって、そこには違和感があったのではないかと勝手に想像する。

f:id:Cinema2D:20190317004536j:plain

 

最後に百田尚樹先生の小説についてもう一度書きたいと思う。確かに上手くはない。つーか行き当たりばったりに適当に書いているとしか思えない箇所が多々ある。しかし侮ってはいけないと思うのは、百田尚樹先生の小説はすげえ分かりやすく、読みやすいということである。同じ事をアホのごとく何度も繰り返して読者に説明する。要するに「文学」みたいな気取りを捨てて、大衆小説に徹底しているのだ。端的に言ってしまうと『フォルトゥナの瞳』のネタ自体は星新一ショートショート世にも奇妙な物語、あるいはOヘンリーの短編くらいのサイズにしてしまえるような小ネタなのだが、百田尚樹小説はこのシンプルな自己犠牲の物語をくどいほど丁寧に何度も何度も繰り返し読者に説明していく。それは彼がテレビの構成作家出身であることと無縁ではなく、テレビ番組はそのようにCMをはさんで字幕を出し、ぼんやりと見ている視聴者に繰り返し繰り返しメッセージを刷り込んで成立するのだ。百田尚樹先生小説はなぜ売れているのか。百田尚樹小説の読者はどこから来ているのか。周囲で「東野圭吾宮部みゆきのファンだったけど、最近は百田尚樹先生に夢中だわ」という人を見たことがあるだろうか?彼は既存の人気作家と競合して読者を奪っているのではなく、ふだん本を読まない層をそのわかりやすさ、テレビ的な文体で取り込むことに成功しているのだと思う。大江健三郎を読みながらこういう部分を馬鹿にしていると丸ごと足下をすくわれる危険があると思う。百田尚樹先生の最大の問題は、思想を持った右翼がプロパガンダとして大衆を扇動していることではない。優秀なマーケティング能力を持ったテレビの構成作家が「大衆に受けるものは何か」と探っていった結果「ウヨければウヨいほど今の大衆は喜ぶ」と気がついてしまったことで、つまり百田尚樹先生は我々の鏡なのである。そこは同じく保守系と見なされる小林よしのり先生の在り方と似ているようで正反対な所だと思う。

最後に百田尚樹先生の話で終わるのもしゃくなので映画の話に戻るが、映画版『フォルトゥナの瞳』の原作にない特色として、就職先の社長の妻である斉藤由貴が非常にエロい。エロい行動を取ったりエロいことをするわけではないが、存在として非常にセクシーな雰囲気がスクリーンに溢れている。『3度目の殺人』の時はこんなムード出してなかったじゃん。三木孝浩監督の撮り方なのか、僕にしか見えない幻覚なのかどっちかだと思う。思わず観客として「社長夫人という立場を利用して神木隆之介くんに何をする気だ!」と身構えてしまったが、特に映画では神木くんに何もしなかった。斉藤由貴さんにはこの現役バリバリ感をぜひ他の作品でも発揮してほしい。