一晩寝て冷静に考えてみた『ドラゴンクエスト ユアストーリー』どこが良くてどこがダメだったのか

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一晩考えましたが、要するにこういうことじゃないかと思うんですよね




どうも一昨夜は取り乱しまして失礼しました。↓

www.cinema2d.net

書いた記事に嘘はないものの、どうも映画を見た人同士の共有や反論ではなく「見てないけどこういう内容なら見なくていいな」という方向でバズっている節があり、これは意図するところではないんですね。どんな映画も、見ないで切るべきではないと思う。ちょいちょい念を押してはいるものの、やっぱり文章全体の勢いで「とにかく最初から最後までクソ映画らしい」という文脈で読まれてしまっているらしいのですが、

最後を除いては映画としてかなり良い

ことを力説しておきたいんですね。なんかもう「あなたの記事を読んで見に行かないことを決めました!ありがとう!」みたいなコメントがバンバン来るからさ。そういうことが言いたかったんじゃないんですよ。あの、見た人と共有するために書いてるんで、見てない人が他人の感想に同調して見る前から「見てないけどあの映画クソなんだってよ~」って広がっちゃうのは僕は好きではないです。なるべくそうならないように書いたつもりだったけど、やっぱりそうなっちゃった。

あのね、クソ映画じゃないんですよ。一昨日も書いたけど、ラストを除いて出来は相当に良い映画なんです。

 

改めまして

ドラゴンクエスト ユアストーリー』の良い所①

CGアニメのクオリティが高い

前回も書きましたが、ある面ではディズニーやピクサーに部分的に追いついてるんですよね。追いついてるっていうかパクってるっていうかさ。これ、やり方次第では日本でも3DCG映画で世界と勝負できる時代がくるなってことを感じさせる出来になってる。CGがない時代にハリウッドとアクション映画で勝負するなんてことは夢のまた夢だったわけです。向こうは米軍動かして本物の戦車出してくるとか、本物のビルをひとつ吹っ飛ばすとか当たり前のようにやってくる上に、欧米人はアジア俳優の映画をぜんぜん見てくれないという問題があった。でもCGアニメなら戦う余地があるわけですよ。この「ドラゴンクエスト ユアストーリー」も明らかにゲームの知名度こみで海外をにらんで作られていると思う。

ドラゴンクエスト ユアストーリー』の良い所②

声優陣みんながんばった

声優もすごくよかったしさ。ミルドラースなんて井浦新がやってるんですよ。『プロメア』の堺雅人が話題だったけど、あれに遜色ないくらいミルドラース上手い。あんまり上手いんで井浦新が演じる意味がほぼ無くなってるくらい上手いんですよ。基本違和感なさすぎて「え?この有名俳優、出てた?」ってエンドロールで気がつく感じです。安田顕だけは良い意味で気がつくよ。

ドラゴンクエスト ユアストーリー』の良い所③

脚本も最後を除けば良い

もちろんコアなドラクエファンから見て不満なところはあるんでしょうけど、ハリーポッターであれロードオブザリングであれ、はしょらないと2時間におさまるわけないんで、一般の観客からしたら元々のシナリオが面白いから相当に見られるエンターテインメントになっている。あの、フローラとビアンカどっちを選ぶかという微妙な問題についてもけっこう繊細な答えを出せていたわけ。

なので映画としては最後以外は普通に良い

ことを力説しておきたいです。だから肯定派の人がたくさんいるのはうなずけるというか、「最後が気に入らなかったからって映画を全否定しないでよ」というのはその通りなんです。

ぶっちゃけて言えば最後をマイナスしても料金のもとはとれる、見て損する映画ではないわけ。

ただそれだけにラストが謎なんですね。

なんであんなことをやろうとしたのかまったくわからない。

 

 

 じゃあ『ドラゴンクエスト ユアストーリー』のラストは何がダメだったのか、なぜダメだったのか

ひとつ腑に落ちたのがこの記事。

jp.ign.com

そうなんですよ。あのラスト、山崎貴監督はね、たぶん「ドラクエファンを肯定しよう」「ドラクエファンをエンパワメントしよう」と思って書いたシナリオなんじゃないかと思うんですよね。

要するに「ゲームはVR、実のない仮想現実だが、仮想現実はキミたちにとって大事なものだよな!僕は認めるよ!がんばれゲームキッズ!応援してるぞ!」という。

 

「ん?」

 

ってなるわけですよね。

そもそもドラクエって、オタク向けのマイナーコンテンツじゃないわけですよ。1作あたりの売り上げが最大432万本って、これ要するにジブリアニメかもしくはそれ以上の国民的コンテンツなわけ。監督の頭の中で「社会に背を向けたオタク青年が現実逃避でシコシコプレイするお嫁さん選びのギャルゲー、それがドラクエ、でも俺はそれをあえて肯定する」という二重にねじれた誤解があるのではないか。

もっと言えば、ドラゴンクエストというコンテンツにはすごく普遍的な「児童文学」「ビルドゥングスロマン(成長物語・教養小説)」の思想が流れていて、コンテンツとしてすごく良心的、社会に開かれた物語になっている。だから「現実社会に認められないVRだが、ボクはこの仮想空間が好きなんだ~!!!」というあのラストとまったく思想が相反してるわけ。

それがいいとか悪いとかはおいて、ドラクエってマニアが引きこもってはまるタイプのゲームとはまたちがうじゃん?発売されたらサッカー部からオタクまでクラス中がドラクエの話題になるようなゲームだったわけじゃん?

なんていうの、「ジブリファンの君たち!セル画に描かれた二次元美少女ナウシカちゃんが好きなんだよな!わかるよ!バーチャルな恋、俺は応援してる!」とか「社会に認められないマイナービジュアル系バンドMr.Children!でも俺はミスチルファンの幻想的耽美を愛する現実逃避わかるし、応援してるから!じゃあ聴いてくれ、『イノセントワールド』!」って言われたようなズレた感触。「いやみんなジブリ見てミスチル聴いてるし、今日はみんなで楽しい同窓会のつもりで、子供連れてきてる昔の友達とかいっぱいいるんだけど」っていう。

 

 

 

 

でも、ここだけならまだここまでファンが爆発しなかったと思う。

完全に監督がミスったのは

 

ドラゴンクエスト ユアストーリー』が完全に間違えてしまったところ

・「ビアンカもフローラも魂のない操り人形で、唯一魂を持っているのはVRプレイヤーである主人公だけであるという設定と、主人公によるその受容。そして観客がそれに納得するという誤算」

 

ここですよね。いや、監督がそんなメッセージを送ろうとしたわけじゃないのはわかるんだけどさ。でもあの設定だとそうなるわけですよ。

ドラゴンクエストVが発売されたのは1992年、まだジェンダーとかフェミニズムとか社会に全然浸透してなかった時代だけど「ビアンカかフローラか」っていうのは単なるギャルゲー的なお嫁さん選びじゃなくて、ジェンダー観を選ぶみたいな所があったんじゃないかと思うんですよ。それは男の子のプレイヤーだけじゃなく、当時すでにドラクエをプレイする女の子というのは山ほどいた。その女の子のプレイヤーにとって「ビアンカかフローラか」というのは、ある意味では自分の生き方を選ぶのに似たところもあったのではないかと思う。それは必ずしも「ビアンカが自立した働く新しい女性、フローラは男に守られる古いお姫様」という正解不正解でわけられるものではなく、今回の映画でもビアンカが選ばれるんだけど、実はそれはフローラが主人公を促していた、待つお姫様に見えたフローラが実は自ら行動して一人で生きることを選んでいた、というストーリーになっていて、これはものすごく優れた脚本なんですよ。パンフレットの堀井雄二氏のインタビューによればビアンカとフローラのシークエンスは監督からできたアイデアとのことで、これが本当だとすれば(本当か?という思いはあります。後段のラストとあまりに矛盾するので)山崎貴監督なかなかやるじゃん、というストーリーテリングなわけ。

要するに映画の中盤では「おまえら男子が二者択一でミスコンみたいに盛り上がってたビアンカもフローラも、本当は選ばれるだけの人形ではないんだ、自分の意志で行動する生きた女性なんだ」と描かれる、それがこの映画のすごく良いところなのに、映画のラストで「しかし実はビアンカもフローラも魂のない人形、主人公に都合のいいプログラムでした~」となり、しかも主人公が「おれには大事なんだ~」的なことを言ってそれを受け入れていくわけ。それはね、フェミニズム的、ポリコレ的にいいとか悪いとかではなく見ていて映画的にものすごく「気持ち悪い」終わり方なわけですよ。

この映画が失敗してしまったのは結局そこにつきていて(パンフレットでは堀井雄二氏もラスボスに見解の相違があり「監督には監督の思い入れがあり、僕には僕の思い入れがあったけど、ゲームと違う終わり方になってもよかったと思う」と語っていて、まあ全否定をパンフレットでするわけはないからアレだけど、堀井雄二氏のドラクエ観、ビアンカとフローラ観とは明らかにちがうよね)監督はドラクエファンをエンパワメントしたつもりかもしれないけど、最終的に「VRへの自閉」を肯定しているように読めてしまうわけ。でもそれは全然ドラクエファンにとって嬉しいものではなく、むしろ堀井雄二という不世出の天才が書いた『ドラゴンクエスト』という物語、それは書かれた媒体が違うだけで『ハリーポッター』のような児童文学にもひけを取らない8ビット文学の思想と真っ向から対立している。

ドラゴンクエストV 天空の花嫁」のシナリオにしても、堀井雄二という人の天才的なところなんだけど、RPGの定番である貴種流離譚、主人公が貴い血を引く勇者の末裔という展開を否定しているんですよね。「勇者の血を引いた選ばれた人間だと思っていたけど、そうじゃなかった。伝説の剣を抜くのは僕じゃない、自分はどこにでもいるつまらない人間にすぎなかったんだ」という驚愕の展開で、「世界の中心はキミではない、でもキミは世界を救うために色々な人と協力して戦うことができる」という物語がドラゴンクエストVで、それは映画でもちゃんと描かれてるんですよ。それはものすごく普遍的で良心的な成長物語で、あのラストの「すべてが自分中心になる仮想現実空間を肯定していく」という思想とは真逆なわけです。

だから、監督は「大好きな仮想現実を肯定されてファンは喜ぶだろう」と思ったのかもしれないけど「外側だけ美しい、魂のないビアンカたちと永遠にVR空間で暮らす」というのは男の子のプレイヤーから見ても「ビアンカやフローラの魂を愛した、魂で選んだ」という選択の否定だし、女の子のプレイヤーから見れば「結局魂があるのは男の子の主人公だけで、ビアンカもフローラも魂さえ許されない人形だった、こんなの囚われのお姫様よりもひどいじゃないか」という究極のディストピアに見えるわけですよ。

(2019.8.6 21:37追記 要するに「虚構であることをつきつけたことが問題」というより(まあそれもどうかと思うけど)それに対する主人公の応答が「虚構でいいじゃん」で終わりなのがあんまドラクエ的な答えでないことにも不快感の一因があるのだと思う)

 

 

というわけで、『ドラゴンクエスト ユアストーリー』の感想はこれで終わり。

繰り返して言うけど、別に僕は山﨑貴監督がそこまで悪意を持って挑発的にやったとは思っていなくて、「子供向けのコンテンツをそのままやってもつまんないから何かひねろうかな~」と思ってやったらとんでもない負の化学反応が起きてしまったということなんだと思う。でも創作、物語ってそういうものなんですね。化学反応って別に名作にだけ起きるわけじゃない。「そこまで悪いものを書くつもりじゃなかった、こんなはずじゃなかった」という暗黒方向にも化学反応って起きてしまうもので、だからこそ創作は奥深いんですね。

最後に、そして繰り返しになりますけど、だからといって山﨑貴監督の映画はもう見ない!とか、この映画は見る前から駄作だとわかった!というのは僕は反対です。映画は見るまで何が起きるかわからないし、見るたびにちがう生き物なんです。

あと、映画の制作サイドは久美沙織先生の訴えには本当に誠意をもって対応してほしい。どれだけ多くの同時代のファンが久美沙織先生という作家に思い入れを持っていることか。解決を望みます。

 

news.livedoor.com

 ところでこの『ドラゴンクエスト ユアストーリー』なんですが。

日テレ資本なんですよね。

金曜ロードショー』で放送される可能性があるわけですよ。

な?スタンリー。

言いたいことはわかるな?

カットするんだよ。いつものスタッフロール全カットじゃなくて、例のラストのあのシークエンスを丸ごとだ。

あそこさえなきゃ秀作なんだから。

お前のカット能力で初めてみんなが幸せになる時がきたんだ。

頼んだぞスタンリー。