塚原あゆ子監督が『アンナチュラル』と『コーヒーが冷めないうちに』という正反対の2作で見せた仕事について

 

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…描いてはみたもののこの絵、有村架純石原さとみに全然見えないな。まあこれは似顔絵と言うより有村架純石原さとみのメタファーだから。いつか画力上がったらちょっと描き直すわ。

 

えー、『りっすん』様で、女性クリエイターの仕事について書かせて頂きました。

 

 

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記事の中では文字数の関係でぼんやりした書き方にとどめていますが、この『コーヒーが冷めないうちに』という映画の原作本、数十万部売れてるんですが、サンマーク出版の本なんですよね。サンマーク出版wikiりますと、

精神世界・スピリチュアル、自己啓発、心理学、哲学などの書籍を扱い、出版不況の中、スピリチュアル系の本で売り上げを伸ばしている」

という非常に味わい深い説明が出てまいりまして、まあ古くは『母原病』『脳内革命』とかですね、あるいはこの、江本勝『水は答えを知っている - その結晶にこめられたメッセージ』ですとか。いやオカルトだとは言ってないですよ。僕がいつサンマーク出版様をスピリチュアルビジネス呼ばわりしたって言うんですか。僕はサンマーク出版様とは良いおつきあいをさせて頂き、ゆくゆくは『1ドル3兆円政策であなたの水虫がみるみる治る』というアベノミクスとニセ医学をアウフヘーベンした画期的なベストセラーの出版を虎視眈々と狙っているんですからおかしな言いがかりはやめてくださいよ。

 いちおう言っておくと当然ながらサンマーク出版から出てる本が全部そうだと言うわけではなく、こんまり近藤麻理恵先生の『人生がときめく片付けの魔法』とかもそうです。

さて、じゃあこの数十万部ベストセラーの『コーヒーが冷めないうちに』がどういう本なのかというと、まあ読んでいただくとわかるんですけども、小説とか文学って感じの構成ではないんですよね。ある種の道徳教科書というか、「女性向けの修身訓話」みたいな色合いが濃いわけです。タイムスリップというのが象徴的に使われているんですけど、家族回帰、母性回帰、恋愛回帰というテーマが打ち出されていて、登場する女性たちはみんな田舎に帰って家業を継いだり、本当の愛にめざめたり、母体を危険にさらして自分の命と引き替えに子供を産んだりするわけですね。僕が書いたわけじゃないんでブログに向かってリンゴの芯を投げるのはやめてくださいね。

しかしじゃあそういう本に需要がないのかというと、前掲したように数十万部売れていて、恐らくそのメッセージに感動する読者の大半は女性だったりする。

記事でも書きましたが、今作が劇場映画初監督となった塚原あゆ子監督は『アンナチュラル』のシャープな演出で各賞を受賞したテレビドラマの演出家で、野木亜紀子脚本と『コーヒーが冷めないうちに』って本当に方向性が真逆なわけですよ。

そこで「私の撮りたい映画の方向性じゃない」と断ることはもちろんできたでしょうけど、日本で女性の映画監督はただでさえ少ない。フェミニズム的テーマの作品がガンガンヒットして企画される土壌もない。次のチャンスがいつ来るか、そもそも次があるかどうかもわからない。そんな状況で受けた仕事なのではないかと思います。

記事でも書いたんだけど、塚原監督と奥寺脚本はそういう作品を高度な技術でブラッシュアップしている。原作からしてリアリティ度外視の「ためになる訓話」形式なんで、映画化に耐えるようなリアリティを担保してないわけですよ。そもそもが「コーヒー頼むとタイムスリップできる喫茶店のことが街で噂になってるのに客がほとんど来てない」みたいな、そんなのふつう世界的なニュースだろうっていうシュールな状況で、その上に色んなタイムスリップの条件設定と禁止条項が積み重なっている。これをお客さんに不自然に思わせずに勢いで「そういうお話だから」と飲み込ませる冒頭のスピーディーな演出が本当に素晴らしいんですね。よくこんなことできたなという。

 

結果的に、この映画が保守的な映画から画期的なフェミニズム映画に変わったのかと言うとそうではないと思う。そもそも原作のファンというのはそういう原作の回帰性が好きな人たちなのであって、塚原監督も奥寺脚本も「お前らこんなの好きで馬鹿だな、こういう風に変えてやるよ」というスタンスは取っていない。吉田羊が田舎に帰って旅館継いで女将さんになったり、波瑠が素直な自分を取り戻して彼氏と結婚したりというストーリーはそのまま。カメラ目線で教訓を語るような演出もある。そういう部分を「ジェンダーバイアス」という言葉でフェミニズム的に批判することはできる。

ただ、そういう商業的、クライアントコード的なものを守りつつ、やっぱり見えにくいところですごく変えてるんですね。記憶を失っていく薬師丸ひろ子とそれを介護する松重豊の老夫婦の物語はこの映画の中でも白眉のシークエンスなんだけど、あれって原作では妻が夫を介護する物語なわけです。しれっと逆に変えていて、それを映画のパンフレットでは「男性の方も楽しめて共感できるように」とか「タイムスリップするのが女性ばかりだから」と説明しているんですけど、みなさんこれが企業の中で働く女性の見事なソフィスティケーションですよ…という鮮やかなレトリックなんですよね。で、この「男女を逆にする」という演出が、結果的に記憶を失っていく薬師丸ひろ子の名演技を引き出していく。薬師丸ひろ子さんって、若い頃はそんなに演技派と言われてなくて、昔の雑誌とか読むとけっこう「何をやっても薬師丸ひろ子じゃねえか」と揶揄されたりしてるんですよ。でも女優としてのキャリアを重ねて、ここまでの名演技をする大女優になった。この映画、薬師丸ひろ子-吉田羊-波瑠-有村架純っていう、四つのシークエンスを四つの世代の女優がそれぞれ演じる構成になっていて、それ自体が塚原監督によるある種の女優論、女性論みたいもに見えるようになっているんですよ。

有村架純が演じた『数』という主人公もそうだけど、本人も他の雑誌で演じるのに戸惑ったと語っていて、原作では相当にアンリアルな設定のもとに書かれたキャラクターなんですね。そこを血の通った人間に見えるように変えていく、伊藤健太郎(当時はまだ健太郎という芸名でした)演じる、大学生の男の子が閉じた家の中から彼女を連れ出すような物語を付与している。これ、塚原監督と奥寺脚本の腕だから「回帰的な映画」くらいにまとまってるんで、腕のない監督がそのまま作ったら本当にリアリティのぶっ壊れた、原作ファンも「なんか映画にしたらダメだった」とがっかりするような黒歴史映画になってたと思うんですよ。それをちゃんと沈まない船に修繕する、船の目的地は変えないにしても、船が沈んだり乗客が犠牲になったりすることのない作品に仕上げるというのは知性と思想がないとできないことだし、この映画で塚原監督と奥寺脚本が見せたそういう仕事というのは「批評」として評価の対象になっていいのではと思いました。

 

というわけでここまで3000字近いんですが、元の記事自体が相当に文字数オーバーなので全然入らなかったんですね。というわけでブログで付記しました。みなさん良ければ元の記事をもう一回読んでみて下さい。『かぐや姫の物語』の脚本家坂口理子さんのこと、『止められるか、俺たちを』のこと、色々書いています。

 

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