映画『ドラゴンクエスト ユアストーリー』感想。というか罵倒。大人の作家的虚栄心のために子供の観客を踏みつけちゃダメ。

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僕は基本的に駄作をいじって笑う、とか、失敗作をみんなでボコボコに叩くというノリがあんまり好きではない。創作なんて基本的に嘘っぱちなんで、ぶっ壊そうと思えばどんな名作だってグチャグチャに批判できるわけである。誰かが必死に書いて震える手で差し出したラブレターを目の前でビリビリと破けば、そりゃ確かに告白してきた相手よりは優位に立って見下すことができるだろうけど、基本的には僕は誰かに向けて下手くそなラブレターを書いて恥をかく側にいたいと思っている人間である。その方が人生が楽しそうだし。

だからこの『ドラゴンクエスト ユアストーリー』が2019年8月2日に封切られるやいなやあらゆる人からボロクソに言われているのを見て「ああまたか」と思ったし、「もしかしたらCGクオリティが低かったり、原作のゲームとは違うラストだったりして不評なのかな、でもそういう中でも作り手の意図とか思いが読み落とされていたりするからな」と思って見に行ったわけである。基本的に僕の映画感想、特に邦画関係の感想はそういうのが多いと思う。

で、見たわけですが。

違いました。

全然そういう問題ではない。

さっきラブレターの話をしたが、ことこの映画にかぎっては、映画の作り手の方が観客が差し出したラブレターをビリビリと破り捨てて「ふん」と鼻で笑うような映画だったのである。

 

『令和のデビルマン』『デビルマン以下』とかそういう言い方もちょっと違うと思う。確かにデビルマンをはるかに超えて最悪なのだが、デビルマンがいまだに叩かれているのはあくまでクオリティの問題である。『ドラゴンクエスト ユアストーリー』のCGクオリティはむしろ高い。ディズニーやピクサーのCGセオリーの丸パクリと言えばそれまでだが、逆に言えばデジタルであるが故に技術の模倣が可能な3DCGの世界においては、制作費が数十倍も違うハリウッドの最先端と「ある程度は」いい勝負ができるということを見せている。物語的にドラクエファンにとって原作と違うという点もいくつかあるのだろうが、あろうことか名高いドラクエ5をプレイしたことがない僕にはその辺はわからなかった。原作ゲームとの違いについてはこちらのブログが詳しくてわかりやすかったので紹介させてください。

claim-mnrt.hatenablog.com

トラックバックってこれでいいのか?というかこれトラックバックっていうのか?リンク貼っただけだからよくわからんけど。とにかく上記のブログは「この映画に何が起きたか」を丁寧に説明していてわかりやすいので読んで頂きたい。僕は正直言って説明する気力がわかないのである。

ネタバレする。いろいろあるが端的に言ってしまうと、この映画はクライマックスである種のちゃぶ台返しがある。要は「今までみなさんが見ていたドラクエ映画、これは全部CGで作り物、現実逃避のためのバーチャルリアリティーでした~」と悪のボスが明かし、主人公(正確に言えば主人公を操るVRプレイヤー)が「それでもこのゲームの中に俺には大切なものがあるんだ~!」とかなんとか言ってスライムの形をしたアンチウィルスを使って、ゲームのウィルスである悪のボスを倒す、ゲームの世界がもどってハッピーエンド、というラストなわけである。

と、書くと、人によっては「へえ、変わってるけどまあそういうのがあってもいいんじゃない?」と思うかもしれない。たぶん脚本を引き受けた山崎貴監督も書いてる時はそう思って書いたのだろう。でも劇場で実際に見ると「見られたもんじゃない」くらいの後味の悪さなのである。ウィルスを擬人化したラスボスが指を鳴らすと、今までの2時間で観客が感情移入してきた、というかほとんど子供のころからずっと思い入れてきたであろうビアンカたち登場人物がCGのテクスチャを剥がされ、「人間ではなくただのモノ」であることが観客に見せつけられる。そういう虚構に対する批判性、批評性のようなものは押井守庵野秀明はじめ多くのアニメ作家が過去にやったことだが、それは彼らなりのある種の自己批判であり、自己批評であったわけである。そして彼らはそうした自己批判のあとに二度と引き返せない橋を渡り、苦しみながら作家として歩き出したわけだ。でもこの映画に作り手のそういう覚悟はない。プレイヤーが「俺には大事なんだ~!」と叫ぶとボスは倒され、キャラクターにはテクスチャが戻り、生き返ったように主人公にかけよりハッピーエンドなのである。

 

いや、戻らないですよ、山崎貴監督。

画面の上で3Dにカラーテクスチャを戻したからといって、観客の心の中のビアンカは生き返らないです。

山崎貴監督は根本的にわかっていないと思うのだが、あのラストは「魔法で石にされていたキャラクターがボスを倒したら人間に戻りました」というような設定とは本質的に違うのである。

「お前らこのビアンカとかいう女が好きなんだって?こいつ生きた人間みたいに見えるけど、ただのモノだからな。こいつに心なんかないしただのプログラムなんだよ」ということを見せつけたあとで、テクスチャーを戻してプリプリの3Dビアンカを主人公に駆け寄らせても、観客の心は元には戻らないのである。生きたまま皮を剥がれた動物が生き返らないように。

 

大人はまだいい。ドラクエVを一切プレイしたことがない、ビアンカとフローラ二択!みたいな話をネットのクリシェとして聞き流してきた僕ですらこれだけ気分が悪くなるのだから、長年の原作ファンなんてどれだけひどい気分になるかは想像に難くないのだが、それでも大人には「これは山崎貴監督の撮った映画にすぎない」と忘却の箱に放り込むことができる。

劇場を埋めていたのはそういう「往年のファン」ではなかった。あっあなたコミケドラクエ本買ったことありそうですね?という観客は1割もいない。あとは圧倒的に家族連れ、小学校低学年の子供を連れたお父さんお母さんなのである。ドラゴンクエストというのはそういうゲームなのだ。

山崎貴監督がやったのは、そういう子どもたちにぬいぐるみを差し出して、子供がすっかり感情移入してぬいぐるみを友達だと思った2時間後に取り上げ、腹を引き裂いて中の綿を引きずり出し「お前、こんなもんただの布だぞ」と踏みつけたあとに「まあそうはいってもぬいぐるみで遊ぶことは否定しないけどね。ぬいぐるみ最高!」みたいなことを言って腹に綿を戻したぬいぐるみを突き返してるようなものだと思う。しかもそのぬいぐるみは、山崎貴監督がデザインしたものでもなんでもないのである。

劇場で子供たちがショックを受けて泣いたりしていたかというとそうではなかった。そこまで面白かったのに突然変な話がはじまって意味がわかんなかったというのが正直なところだろう。そりゃそうである。子供はまさに今リアルタイムで世界に没入しているのに、いきなり大人がバーチャルがどうのハッカーがどうの現実に戻るのがどうのみたいな話をはじめるわけである。変な魔法使いが出て来て倒されたみたいな捉え方で楽しんだ子供が多いだろうし、それでよかったと思う。ただ、その子どもたちを連れた親御さん達のリアクションはハッキリと悪かった。自分の子どもに大人が何をどういうつもりで見せているか敏感に感じているからだと思う。

 

山崎貴監督が完全にドラクエスクエニ、あるいはゲーム文化に対して喧嘩を売るつもりでそういう演出をしてるのならまだいい。押井守庵野秀明も、古くは富野由悠季ですらある意味ではそうやってアニメ文化と喧嘩をしてきた作家である。でもこの映画には、観客や原作と喧嘩をする覚悟、腹のくくりはない。「なんとなくマウント取りたいから殴ったけど、撫でればナシになってハッピーエンドだよね」という甘い了見があるだけである。

山崎貴監督についてはドラクエの前から映画ファンから叩き一辺倒、叩き前提みたいになっている風潮があり、そういうのは僕はダメだと思う。信頼する映画ブロガー「窓の外」さんによれば『アルキメデスの大戦』はかなりいいらしい。見に行きたいと思う。好き嫌いはあるだろうが、監督デビューとなった香取慎吾主演の『ジュブナイル』を今でも好きだという人はたくさんいる。才能のある監督である。

 

kyoba.hatenablog.com

 

ただ、今回の『ドラゴンクエスト ユアストーリー』に関しては弁護の余地はほとんどないと思う。それは劇場であの家族連れで一杯の客席が、上映終了で明かりがついた瞬間にもらす「はぁ~・・」「あ~」という何とも言えないざわめきを聞いたら誰だってそう思うはずだ。

良いところがないわけじゃない、というか山崎貴監督のあの部分以外はだいたい良いと言っても過言ではない。フローラと魔法使いの老婆を演じ分けた波瑠さんの声優スキルなんか脱帽だし(ビアンカに恋の勝負に敗れるフローラの描き方はこの映画のすごく人間的な、良い所のひとつだと思う。それだけにその後の「それも嘘でした~」がきついのである)、声の演技が分からず戸惑う有村架純に「舞台の演技に似てる」とアドバイスした佐藤健もさすがだと思う。

良い映画になるはずだったのだ。ちゃんとやれば。力が及ばずに駄作や失敗作になったのではない。明らかに監督の「傲り」、傲慢が映画を壊してしまっていると思う。

www.jiji.com

この記事のインタビューでも目を疑うのだが、映画が公開時のインタビューで、つまりは原作のファンが読む記事において、「(三部作に)分けて作る気はなかった。ドラクエだけに関わっているわけにもいかないので」って言い草はジョーク混じりにしてもなんというか、本当に原作を素材としかみていないのがビンビン伝わってくる。それはまだいい。でも問題は観客すらも素材としてしか見ていないのではないかという所である。そもそも映画としても破綻していて、VRに没入するプレイヤーの現実の姿が描かれるのだが、なんというかこれがドラクエにたいして思い入れもなさそうなチャラいヤツなのである。なんでこれがゲームの中で突然「それでも俺はこの虚構を愛する!」みたいになるのかという説明はない。その後にどう生きていくのかという描写もない。たぶん山崎貴監督自身、ドラクエ的ではないCG描写を盛り込みたかっただけで、そんなストーリーどうでもいいと思っているのではないかと思う。山崎貴監督に才能がないのかというと逆で、明らかに日本の3DCGアニメの第一人者の一人、日本映画の世界進出に欠かせない監督とみなされていると思う。五輪の演出家にも選ばれている。だからこそ「ドラクエだけに関わっているわけにもいかないので」という言葉とあの演出に「俺はもうこんな子供だましの映画なんか撮るクラスの監督じゃないんだよ」という傲慢を感じてしまう。ちなみにこの映画、なんと小説版の久美沙織さんに承諾を取らずに主人公の名前を使い提訴が起きていることを付記しておく。

news.livedoor.com

 

「悪とはてめー自身のためだけに弱者を踏みつけ利用するやつのことだ」

というのは『ジョジョの奇妙な冒険』13巻で空条承太郎が吐く名台詞なのだが、この映画が駄作や失敗作なのであれば僕は叩かないと思う。でもそうではない。ここにあるのは作り手の傲慢であり、ある種の悪でさえある。映画が悪を描くのは構わない。でも映画そのものが観客を見下した傲慢な悪であってはいけないのである。これ以上書くとブログ史上最長の記事になってしまい、それはそれで気分が悪いので、最後に『犬は吠えるがキャラバンは進む』のライナーノーツに収録された、小沢健二によるとてもとても有名な文章の一節を引用して終わりたいと思う。

 

"ある友達の女の子が出来たばかりのこのアルバムのカセット・テープを聴いて、何かゴスペルみたいねと言った。その時僕は即座に言わなくてもいい軽口の2つ3つをたれ流してその場をごまかしたんだけど、本当はその子をぎゅーっと抱きしめてしまいたかった。どうかこのレコードが自由と希望のレコードでありますように。そしてこのCDを買った中で最も忙しい人でも、どうか13分半だけ時間をつくってくれて、歌詞カードを見ながら"天使たちのシーン"を聴いてくれますように。ついでに時代や芸術の種類を問わず、信頼をもって会いに来た人にいきなりビンタを食らわしたり皮肉を言って悦に入るような作品たちに、この世のありったけの不幸が降り注ぎますように。"

 

 

2019年8月6日追記:良い点と悪い点を整理するために、加筆修正ではなく2日後に別の記事を書いたのでもし良ければこちらもお読みください。

www.cinema2d.net

ちなみに上記の小沢健二の文章が収録されているのは今は絶版となった『犬は吠えるがキャラバンは進む』のCDのみで、再発の『dogs』には収録されていません。念のため。