映画版『CATS』は本当にそこまでバカにされるような映画なのか?という話

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普通に面白い。配給は洋ケモナー映画として細田守監督に推薦をもらうべき


 

劇場映画『CATS』がバカにされまくっている。何しろ欧米でも酷評大喜利みたいなのをやっているらしく、我らが欧米崇拝ジャポンも本家があれだけバカにしているのだから、と安心してバカにできるわけである。というわけでみんなバカにしている。なにしろビジュアルがキモいという小学生にもわかるような特徴があるのでバカにするのにエスプリだなんだという手間がかからないのである。

でも本当か?

今日見て来たけど、すげー面白かったぞ「CATS」。

いや、確かにとっつきは悪かった。CG着ぐるみはなんだか八頭身ドラえもんみたいでキモかったし、やたらグラグラとカメラを揺らすので映画酔いした。

でもそれを帳消しにしてあまりあるくらい面白かったと思う。

 

これは僕がミュージカルの『CATS』を今まで見たことがなく、「キャッツという物語はこういうことだったのか」という、原作そのものにこの映画で初めて触れた衝撃が大きかったのかもしれない。世界4大ミュージカルの1つ、記録レベルのロングランをするだけあってすごく本質的な所をついた物語で、猫というのは要するに都市生活者、さらに言えば芸能界や演劇人、それを夢見る放浪者、自由人たちの隠喩になっているわけだ。この物語はたぶん「劇場」で最大出力を発揮するように作られている。なぜならこれはニューヨークやロンドンで夢を追い、そして多くが夢破れる演劇人たちの自己言及だからである。物語には多くの猫たちが登場するが、それはスターダムを夢見てNYやロンドンに迷い込む貧しい若者たちが街の裏通りで出会う人間たちにそっくりだ。ヤクザに手品師、老いた往年のスターに、そして娼婦。伝説の長老猫が天国に登るたった一匹の猫を選ぶ、というオーディションも、言うまでもなく演劇をモチーフにしている。そしてそのオーディションに最後に選ばれるのが

(ネタバレするが)

年老いてもう美しくなくなってしまった雌猫であるというのも、ショービジネスの光と影、そしてそれゆえに必要とされる敗残者たちの魂の救済を描いているわけだ。

うむ。

めちゃくちゃ面白かった。

というか感動すらした。

これそんな叩く映画か?ビジュアルは確かにクィアってるが、そんなこと言えばナウシカ歌舞伎とか宝塚の演目やカルトな美少女アニメをそういう視線でバカにすることだって十分に可能だと思う。日本のオタクはそういうことをよく知っていて、そういう「文脈」を飲み込んで物語を楽しめるはずではないか?

 

いやまあ、ケチのつけどころがあるのはわかる。なにしろ歌:99に対してセリフ:1くらいで進むので、物語のテンポが遅い。延々と街の猫を紹介する前半はさすがに「いったいいつまで紹介してんだ」という気分にもなった。映像が独特のセンスに貫かれているので、趣味の合う合わないもあるだろう。僕も正直それは感じた。

 

ただ重要なことは、欧米の人たちはそういうツッコミを「もちろん『CATS』という物語そのものは最高なのだが」という前提のもとにやっているのではないかということである。あの人たちはたぶん、CATSがどういう話なのかを知っている。僕らが「ドラえもん」のストーリーを知っているように。これはいわば日本における鋼の錬金術師ジョジョのような「人気漫画の実写化」の時に起きた現象に近いのではないかと思う。漫画ファンは原作と比べてあそこが変だここがおかしいという「違い」ばかり目につく。しかし原作を読んだことがない一般人が最初にそれらの映画に触れれば、当たり前だが普通に面白いわけである。なぜならハガレンジョジョが名作だからだ。もちろん、跡形もないほどに原作をアレしてしまって、原作を知らない一般人が見てもつまらないというケースはある。でも少なくとも、この映画『CATS』は、舞台の本質的なところ、魂みたいなものはちゃんと受け継いで映画になっていると思う。前述したように難点はある。ニュースで報道されていたが、わざわざ天皇陛下に見せるような映画じゃないと思うし、そこは『パラサイト』を鑑賞して「日本の天皇ポン・ジュノの才能を称賛」と海外に打電して「なかなか映画が分かるじゃないか」という反応を引き出すのが皇室外交というものではないのだろうか。もっと言えば「CGの普及によって、映画はむしろ舞台にかなわなくなった」という興味深いジレンマも感じた。例えば劇中で猫たちが見事なタップダンスを披露するシーンがある。一糸乱れぬ見事なパフォーマンスで、これを舞台で生で見たなら拍手喝采だろう。ただ映画の観客はもはや不幸なことに「これCGや編集でいくらでも後から綺麗に揃えられるよね」と心の中で思ってしまう。実際にそうである。たとえそのタップダンスが加工なしの本物だとしても、生の舞台で目の前で見たら感動するものに、映画の観客は感動できなくなっている。それがCGという万能の魔法が「万能の代償として感動を奪い去る」という形で映画から奪っていったものなのだろう。まるで良く出来たおとぎ話の苦い結末のように。

 

そこを分かった上で「あそこがなー」という点はある。確かにあるがそれを話すことと、この物語のテーマを知らない、見ないままに「キャッツwww」みたいなノリに溺れて、この映画、いや『CATS』という物語とすれ違ってしまうことは不幸だと思う。

 

たぶん多くの人が薄々気がついていることだと思うのだが、ネットの評判は個人個人の感性ではなく、集団が決定した物語に支配されている。つい数日前まで「ネットのみんなあの俳優スゲー好きだな、そりゃ味のある俳優だと思うけど。名前が東大出に錯視するからかな」とぼんやり考えていた僕を置き去りにするかのように不倫騒動以降「あいつは棒読みで何の演技力もない俳優」「あいつにはこれこれこういうミソジニーエピソードがありました」みたいな話が嵐のように荒れ狂っている。なんで数日前まではそれ言わなかったの?みたいなことを言っても意味がなく、まあそれがインターネット隣組翼賛体制というものなのである。政治的に失脚したから反革命分子的な言動が並べ立てられているだけであって、逆ではない。猫アイコンがやたら好きなくせにネット民の行動様式は実に集団の犬なのである。わんわん。そしてそういうコンセンサスワールドの中では、『CATS』はダメ映画ということになっている。あるいはある面で、多数の感性とすれ違ったという意味では確かにダメ映画なのかもしれない。でもこのダメ映画の核心には、世界初のロンドン公演から40年近くを経て今も古びないテーマが今も輝いていると思う。世界四大ミュージカルと呼ばれる「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」「ミス・サイゴン」と比べても「CATS」は異質だ。それは波瀾万丈の物語というより、夢を追って都会に独り暮らしを始める若者たち、そして夢破れて都会に暮らす大人たちを愛をこめて描いた叙情詩であり、ある種の隠喩によるノンフィクションなのだと思う。この物語にはロンドンやニューヨークや、そして下北沢や渋谷の放浪者たちが夜通し酒を飲んだり働いたりしたあとに夜空を見上げた時の「匂い」が満ちている。いや舞台はまだ見たことないんだけどさ。でも映画見る限りたぶんそうだし、すごく面白かった。インターネットをCATSの感想を検索すると普通に感動している映画村から遠く離れた若い世代の感想があったりして、もちろん正しいのは彼らの側なのである。

 

『CATS』のラストをしめくくるのはとても有名な「猫からのごあいさつ」という歌である。映画版では字幕翻訳されていたが、たぶん劇団四季とかで歌われている歌詞の方が名訳で、本質をついているのではないかと思う。はてなでは歌詞を載せてもJASRACに踏み込まれなくなったらしいのでそれを転載して結びとしたい。もしもあなたが劇場に足を運ぶなら、あなたは世界中で笑われバカにされている猫たちの映画を観ることができる。でも彼らは、あなたが他人の評価なんて気にせずに自分の目で映画を見ることができるのなら、40年前のロンドンで公演された時と同じように、自由と孤独の物語をあなたに囁きかけてくれるはずだ。あなたがもし人間の社会言語ではなく、猫の言葉を聞くことができるのなら。

 

いかがです皆さん 猫の生き方は

大いなる心を持ち 誇り高く強く

生きているでしょう もうおわかりのはず

とても似ているあなたと

とても似ているあの人と

とても似ている人間と

さあ猫に ごあいさつを

 

忘れてはいけない 猫は犬にあらず!

忘れてはいけない 猫は犬にあらず!