映画『海獣の子供』感想。数万枚の絵画が1秒に24枚重なって1本の映画を動かす。絵と言う『主観』を動かすアニメの本質が描く、深海のような無意識の物語

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時々、「人間の描く絵はあと何年生き残るのだろうか」と考えることがある。ハリウッドが猛烈な勢いで蓄積するCG技術の累積は、手書きアニメどころか生身の俳優すら駆逐しかねない勢いで進歩していく。ユーザーのパーツ選択によって萌えキャラを自動生成する3Dアバター作成ソフトのレベル向上は、絵師を必要としない世界を作り出しはじめているように見える。最終的にポップカルチャーは作家ではなく、企業が所有する巨大なデータベースに集約され、人工知能によって洗練されていくのかもしれない。

海獣の子供』は五十嵐大介という極めて個人主義的で作家性の強い漫画家の作品をアニメ化した劇場映画である。普通、アニメーションはこうした、線に強烈な個性のある漫画作品を苦手とする。動画1枚ごとに絵柄やテイストをコピーするのに膨大な手間と技術が必要になるからだ。しかし過去に映画版『鉄コン筋クリート』で松本大洋という日本有数の作家の絵をアニメとして動かすことに成功したSTUDIO4℃は、今回も信じられないほどの仕事を成し遂げている。

映画の中では海中を泳ぐ膨大な魚たちを描くために3DCGが使用されているが、それらのCGのアウトラインはすべて五十嵐大介の線が持つテイストに制御されている。パンフレットによればそれは作画監督小西賢一氏によるCGスタッフへの徹底的な監修と要望によってなしえたことで、それは絵と言う人間の主観がCGの演算描画を道具として従えた結果なのだろうと思う。

 

場面によってはロシアのアニメーション作家、ユーリ・ノリシュテインを思わせるほどに深く内面に踏み込んだ一枚絵が、スタッフによって何千枚と複製され、まるでジブリのような躍動感とスペクタクルをもって動く。動き続ける。動かすために省略された記号が動くというアニメの定型を超えて、「本当にこの絵が動くのか」と思うような、どこを止めても一作の絵画作品のような絵が目の前で1秒に24枚重なり続け、111分間止まることはない。これはそういう映画である。

この映画には海の匂いがする。MX4DやIMAXで見たわけでもないのに、平凡な音響の劇場にまるで夕闇が迫る浜辺に潮風が吹くような手触りと実感がある。暗闇の深い不気味さがある。実は宮崎駿のアニメ作品を他と明らかに隔てるのはその「実感」で、ジブリヒロインと呼ばれる美少女のキャラクターデザインではないということが、この『海獣の子供』を見るとわかると思う。ストーリーもキャラクターもまったくジブリには似ていない。でもこの映画と、そして五十嵐大介の原作が描こうとしているものは宮崎駿が人生のすべてをかけて描こうとし続けたものと似ている。それは同じ巨大な海を見て別の作家が描いた別の絵なのだと思う。それはある時には『もののけ姫』のような映画にも見えるし、ある場面では大林信彦の『時をかける少女』のような青春の叙情に満ちている。でもそれは「あの作品をオマージュしたんですよね」という手法によるものではない。生きた世界、深海のような無意識、海と言う怪物を美大生のように見つめて丁寧にデッサンし、そのデッサンを何万枚も重ねて動かした『海獣の子供』という映画が過去の名作映画に似ているとしたら、それは名作たちもまた世界を見ながら描かれた絵だからだと思う。

アニメーションは死なない。人間が生きて世界を見つめ、解釈し続ける限りは。スペインの洞窟に最古の壁画を描いたネアンデルタール人のように、3歳の子供がチラシの裏に絵を描き続ける限りは。松本大洋から五十嵐大介というSTUDIO4℃のアニメーション化の成功は、観客を人間の主観の深さにダイブさせ、海の巨大な深さと広さ、容積を見せてくれる。僕たちはまだ船の上から、アニメーションの海面を見ていたに過ぎなかったのだ。