『翔んで埼玉』のコラボ問題について文春オンラインに書いたことの追記と、ブルーハーツの青空についての話

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文春オンライン様で、『翔んで埼玉』と高須クリニックのコラボについて書かせて頂きました。↓

bunshun.jp

 

記事の文字数には入りきらなかったことをとりとめなく書きたいと思います。

映画『翔んで埼玉』を見ながら僕が感じていたのは、なんというかこの映画って1ミリも関ってないのにすごくブルーハーツっぽいな、ということでした。ブルーハーツっぽい、というニュアンスがどういうことなのか、知らない世代に正確に伝わるのか自信がありません。というか同じ世代でもまったく共有なんかされてないのかもしれません。でも僕にとって、ブルーハーツというのはカリスマ的ロックバンドなんかではまったくなく、ある意味においては『翔んで埼玉』的な所のあるバンドでした。それはカッコ悪いがゆえにカッコ良く、ふざけているが故に真摯で、ロックンロールのパロディであるがゆえに正統なロックンロールであるというような込み入った構造、ガラス細工のように繊細な構造を鋼鉄のような強度で達成した表現でした。

『翔んで埼玉』は言うまでもなくコメディ映画です。「表面的なユーモアの中に真面目な差別反対のテーマをくみとってほしいですね」といったご託宣のまったく必要のない気楽な映画で、それ故に大ヒットしています。でも徹底してばかばかしくナンセンスであるがゆえに同時にストレートで熱い、そしてクリティカルな映画になってしまっていたのも事実です。それはブルーハーツが当時時代遅れとしてゴミために打ち捨てられていた類型的なロックンロールのステレオタイプな形式をパロディ的なまでに踏襲した結果、そのエイトビートに期せずして魂が宿り、批評性までも帯びてしまったのにどこか似ている気がしてなりません。

 

 

映画の受け止め方は人それぞれなので、いや『翔んで埼玉』にそんなこと感じなかったよ?という人も多いのかもしれません。ブルーハーツがある人たちにとっては「流行のタテノリロック」として消費されていたように、テレビ局が東京のスタジオに芸能人を並べて地方出身者をいじる、そういうバラエティと同じ文脈で映画『翔んで埼玉』を消費した人の方が多いのかもしれません。高須クリニックとのコラボ、そしてそれに対する公式アカウントのコメントに何の違和感も感じない人が多くいるように。

『翔んで埼玉』は完全にポリティカル・コレクトに反した反差別映画でした。そんなものが存在しうるのか?という問いに「例えばこれがそうだ」と答えることを可能にしたほどに。ブルーハーツの「終わらない歌を歌おう キチガイ扱いされた日々」という歌詞たちが放送コードに反し、なおかつそれでいながら差別されるドブネズミの側に立った歌であったように。世界がポリティカル・コレクト的な規範と、高須院長的なものの両極に引き裂かれつつある今、『翔んで埼玉』はその間に立ち、どちらにも与さない表現であるように思えました。だからこそその危ういバランスは崩されてはならなかったと思うのです。

高須クリニックの広告戦略はこれからも続くでしょう。法的にも資本主義的にも止めるすべはありません。SWCの外圧によって一時的に押さえ込むことができたとしても、それは本質的な解決ではない。最も重要なことは世界がポリティカルコレクトにより殺菌されていないことではなく、僕たちの社会や文化がファイアウォールや抗体を持たないこと、あまりにもたやすくブラックホールのように自己中心的な価値観にハックされ感染してしまうことです。文春オンラインの記事で引用した「第二次世界大戦の敗北は軍事力の敗北であった以上に私たちの若い文化力の敗退であった」という角川文庫発刊の辞を書いた時、角川源義の脳裏にあったのはその抗体の不在、文化的抵抗力についてのことだったのではないかと思います。そして今その角川書店自体が川上量生という日本のネットカルチャーのスター起業家に主導され、国家によるネット規制にもう少しで手をかけていたことはつい最近のニュースでした。

 

 

映画のネタバレになってしまいますが、『翔んで埼玉』のエンディングには完全に映画オリジナルの「革命後の社会」が描かれます。そこでは埼玉県民たちが過去のルサンチマンに囚われ新しい独裁者になるのではなく、といって自分たちのルーツを放棄して東京化してしまうのでもなく、多様性の中でゆるく文化的なミームとしてサイタマイズムを世界に輸出していく様子が描かれるのです。それは原作が描かれた80年代、先日亡くなった橋本治が「80年安保」と呼んだ社会問題の文化的解決を信じた世代の理想でした。現実の社会はふたたび「政治の時代」に逆戻りしつつあるように見えます。矛盾するようですが、「私たちは私たちである」というミーイズム的なイデオロギー、傷ついた自我のアイデンティティポリティクスは他者への政治的無関心とたやすく両立する。その先にあるのは角川源義の言い残した「文化力の敗退」であるように思えるのです。

 

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