映画『母を亡くした時、僕はその遺骨を食べたいと思った』感想。多くの人に関わりのある母からの自立の物語

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原作は大ヒットしたエッセイ漫画で、作者の実話。少年時代に白血病を患い、兄からの骨髄移植で生き延びた主人公は、大人になってからステージ4の末期癌の母の死に向き合うことになる。

いったい日本では一年に何本の難病恋愛映画が作られているのだろう。無数の映画で若く美しい少年少女が病に命を落とし、美しい音楽が流れ、観客は涙する。でもこの物語で死ぬのは年老いた母である。そしてまったく美しくもなく立派でもない、つまりは僕たちのような息子がそれを看取る。つまりこれは高齢化社会に突入する僕たちの現実の物語であるはずなのだが、そういう映画は少ない。あまりにも切実だからだ。

でも幾つかの難病恋愛映画というのは、僕は本当は親子映画なのだと思っている。『君の膵臓を食べたい』では孤独な主人公の前にある日、主人公に価値を認め、自分のすべてを愛してくれる少女が現れる。彼女には秘密がある。それは主人公よりも先に死ぬということである。(正確には膵臓病では死なないのだが)彼女は残り少ない人生のすべてを主人公にすべてを捧げる。そして主人公に自分がいなくなったあとも生きてほしいとメッセージを残し、死んで行く。主人公は彼女の死を悲しみ、それを乗り越えて生きていく。ほとんどの難病恋愛物語にこの構造が共通している。これは恋人だろうか?もちろん違う。これは母親である。彼女がほとんど理由もなく主人公を愛する本当の理由は恋人だからではなく母親だからであり、主人公よりも先に死ぬのは親が子よりも先に死ぬからだ。多くの難病恋愛映画は変換された親子関係の物語なのだと僕は思う。

映画『母を亡くした時、僕はその遺骨を食べたいと思った』はそのテーマを恋愛映画に変換することなく、ストレートに正面から扱う。安田顯は母に依存する息子の未成熟さ、自立しそこなった男性の滑稽さをもがくように演じる。それはまるでもう1つの『愛しのアイリーン』のようにも見える。『キミスイ』のように商業的に爆発的に受ける題材ではない。でもこれはたぶん、甘い衣を剥ぎ取った剥き出しの恋愛映画であり、そしてその依存した恋愛関係にさよならを言う自立の映画なのだと思う。