炎上している『バイバイ、ヴァンプ』の劇場に出演者の女性ファンがほとんど来てなかった話

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16人だった。ちゃんと数えた。『バイバイ、ヴァンプ』公開3日目の日曜日の夜、ユナイテッドシネマお台場のスクリーン5、114席である。ただの16人ではない。人口1000万人の東京都でこの映画を上映しているのは、このユナイテッドシネマお台場のスクリーン5だけなのである。なのに114席に対して16人なのだ。その前日土曜日に見た観客からは、12人だったという報告もあった。岩波ホールで単館上映している中東ドキュメンタリー映画より客がいねえ。しかもその16人のうち、女性はたった2人だった。残りの14人は僕も含め、お互いをハンドルネームで呼んだり、映画を見ながら手もとにメモしているような明らかに映画ブロガーやらツイッタラーやらのネタ拾い、たった2人だけの女性も彼らとなんらかの知り合いで、出演者のファンの女子ではないように見えた。一人一人聞いたわけじゃないのでちがったらごめんだけど。

この映画に出演しているBOYS AND MEN と祭nineの2グループは兄弟格の同じ事務所グループなのだが、いずれも武道館で単独公演を成功させるレベルの人気グループである。もちろん舞台挨拶の公演などはメンバーを応援するために満員になっているし、今後予定されている舞台挨拶も埋まるだろう。それはファン心理として当然のことだ。だが、それ以外、映画としての『バイバイ、ヴァンプ』の公開を、彼らのファンはほとんど「干している」。それはどこの運動団体や政党が命じたことでもなく、自然発生的にアイドルファンの中から起きた結果的な現象である。それがこのブログで僕がどうしても書いておきたいことだ。

朝日新聞で記事にまでなり、政治家や運動家がSNSで非難しているので知っている人も多いと思うが、映画『バイバイ、ヴァンプ』は同性愛差別表現が問題になり、上映中止運動署名まで始まっている。映画を実際に見た率直な感想として書くと、内容への批判はほぼ正しい。このご時世に「ホモ」「レズ」という単語が飛び交い、前世紀のバラエティのごとく「お尻を守る」「気持ち悪い」というリアクションが飛び交う。僕はこれを映画の前半で「監督のセンスの問題」と解釈していた。監督は『特命係長 只野仁』のTVシリーズおよび映画版に関わった監督である。知らない人のために説明すると『特命係長 只野仁』はおじさん向けのお色気ありドラマだ。アイドル映画にも関わらず、映画はすべてがそのヘテロスケベおじさんのセンスで進行する。学園の女教師はジュリアナ東京のボディコンギャル(死語)みたいなファッションで胸の谷間を見せながら(おっぱいが揺れるたびにボインボイーンというゴムボールの効果音が入る)「OH ユーストロング、アメーイジーング…」という洋物ポルノワードで授業をし、体育教師は校門で怒鳴りながら竹刀を振り回している。いつのセンスなんだよ。要はそういう時代遅れなセンスで「流行りのBLドラマ作ってくださいよ」みたいな依頼を受けたゆえに起きてしまった事故なのではないかと思っていた。しかしクライマックス以降、「こりゃなんというか、『その上』から企画コンセプトとして指示でてるな」という印象を持った。とにかく、ギャグやちゃかしでうっかり言ってしまったというのとは別に、明らかにはっきりと宗教色が強まるのである。「同性愛=自己中心的快楽」「異性愛=他者を思いやる愛」という価値観がセリフで強調される。映画に唐突に登場する歌姫が(パンフレットによればこの映画のプロデューサーが発掘したシンガーで、『免疫力を上げる可能性のあるシータ波シンガー』と書かれている)「キリストに関係する」という歌(作詞は映画プロデューサーである)を歌うと、神の愛の前に同性愛ヴァンパイアたちが苦しみはじめ、ヴァンパイアに噛まれる前の異性愛者にもどっていく(元々の同性愛者はそのまま)。「ゴルゴダの丘で死なず日本に渡り青森に墓があるキリストの末裔」を名乗る少年が登場し、その「キリストの末裔の血」を飲まされたヴァンパイアは苦しみ、やがて神の愛の前に人を愛することを知り異性愛にめざめる。うん。「これタダのおふざけやらかしじゃねえな?資本レベル、企画レベルでなんか絡んでんな?」というのが僕の率直な感想だ。だが逆に言えば、それはLGBT団体が何を言おうと絶対に制作サイドとして折れないということでもある。実際現在の時点で、公式コメントはビタイチ折れていない。全ツッパの状態である。

 

 

 

当事者の性的マイノリティがこの映画に対して怒るのは当然だと思う。公開中止署名を始めたのは当事者の高校生だとも聞く。だが僕が言いたいのは、LGBT運動家や政治家が動くよりも早く、この映画の出演者であるBOYS AND MENや祭nineのファンが試写の段階からこの映画を批判し、感想を共有し、そして政治介入や法的規制ではなく、「ファンが見に行かない」という方法で興行的に完全に葬り去ることに成功しつつあるということだ。ファンの前評判が響いて公開しているのは全国でたった5館である。しかもその5館のほとんどは、初日から1日1回もしくは2回の上映で、その数少ない上映すら前述したようにファンがほとんど見に来ていない。僕が見たユナイテッドシネマお台場はすでに20日、公開1週間で打ち切りが決まっている。政治家の介入や活動家の抗議の結果ではなく、死ぬほど客が入っていないからである。東京都で唯一の公開、1日2回の上映なのに114席に客が10人ちょっとなのだ。たとえこれがポリティカルコレクトなリベラル映画だって打ち切られるだろう。興行的には「破滅」の一語である。

yoco.hatenablog.com

上記したのはファンによる批判ブログである。まっとうで思慮深い内容だ。それはアイドルへの批判でアンチになったのではなく、好きだからこそ、自分の好きなアイドルが映画で棄損されたことに怒り、アイドルを守るために行なっているストライキに近いに近いのではないかと思う。(追記:観客動員についてはこの手のアイドル映画でDVD売りメインならありうることという意見もあり、もしかしたら僕の言い過ぎの面もあるのかもしれない。「ライブとかイベントとか色々あるのに出来の悪い映画まで見てられねーよ舞台挨拶で十分だよ」という複合的な理由もあるのかもしれない。でも観客はびっくりするほど入っていないし、ちゃんと批判しているファンが多いことは書いておきたい)そもそもこの映画は内容的にアイドル映画として悲惨なほど失敗している。映画の中で味方の吸血鬼の少女が少年たちを守るために、銭湯でバスタオル一枚で敵のヴァンパイアと戦うシーンがあるのだが、少年アイドルたちは少女を助けるどころか、バスタオルの少女がパンチやキックを繰り出すたびに「見えた!」とラッキースケベに喜び、「よーし剥ぎとれ!」と敵のヴァンパイアを応援するのである。アイドルファンの女の子がそんな推しメン見たいわけないだろう。映画すべてを通じてこの調子で、とにかく全編ヘテロすけべコンテンツの文法で映画が撮られているのでひたすら男の子役がゲスなのである。

でもファンたちが怒ったのはそれだけではないと思う。多くが政治や運動から遠いであろう彼女たちがこの映画のメッセージに対して違和感や嫌悪感を持つことができたのは、BOYS AND MENや祭nineのメンバーに対して、ファンたちが「私の好きなアイドルはこの映画のようなことをしない」というイメージを持つことができる、逆説的だが普段の活動でそうしたメッセージと信頼を築いてきたからだと思う。空席でガラガラの映画館は、広場を埋め尽くすデモのようにはインパクトのある絵にはならない。それでもこれは、日本のサブカルチャー、ガールズカルチャーが長い時間をかけて獲得してききた感性の結果、フラワーデモやレインボーパレードと本質的には同じ、ガールズカルチャーの中の「見えない変化」の現れに思えた。もちろん僕と同じようにこの映画を見てから批判したファンだっているだろうし、これから見て批判したいと思うファンもいるのは当然だと思う。その権利は当然ある。でも全体的傾向として、ファンたちは恐ろしいほど結果的にこの映画を「干して」いる。

 

LGBT団体の人たちや、リベラルな政治家たちが展開する上映中止運動を止める権利は僕にはない。だが、その運動はおそらく「表現の自由か、それとも公的規制か」というSNSでおなじみの論点を呼び込んでしまうだろう。その論争は映画の制作者側に「表現の自由」というアイデンティティ大義名分を与えてしまう結果になる。たとえ公開中止になったとしても、制作者たちは「権力に潰された」という口実を得るだろう。BOYS AND MENや祭nineのファンたちは今、おそらくは決着がつかないであろう袋小路に論点が迷い込むその前に、自分たちの力でこの映画にトドメを刺し、葬り去ることにあと少しで成功しかけている。

 

僕に何かを強制する権利はない。僕が願うのは、今回の問題をファンの勝利で終わらせてほしいということだけである。前述したようにお台場の上映は明後日には終了する。その他の映画館の上映もほぼ「瀕死」の観客動員である。あと1週間、長くても2週間でファンたちは完全に勝利し、映画は破滅的な興行的失敗を抱えたまま終わり、それは政治や法律による決着よりも深く苦い教訓を映画界やビジネス界に残すだろう。それはファンの勝利であると同時に、業界的な事情でこの映画に参加することにはなってしまったものの、一方で長い時間と信頼を通じてそうしたファンを育てたBOYS AND MENや祭nineの活動の勝利だと思う。それがこの映画を劇場で見た、つまりは「彼女たちのムーブメント」に参加せずに映画館に足を運んだが故にその運動が生み出した「空席」を結果的に目撃することになった、僕からの書き置きである。